自分は完全に「言葉の人」ーー起きたことの全てを言葉で「整理」しないと前に進めない人、だと思っていたけれど、最近そうでもないなと感じる。
なんだか最近ふわふわと幸せで、あえて言葉に表して外に向かって発信しなきゃいけないことなんてあるかな。
そう思いながらも、「今のわたし」はわたし史上わりと[いい感じ]なので、今の感覚を、感じていることを、すこしでも記録しておいてみよう。
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本当に、自分の幸せを優先して生きていていいんだなと、最近つくづく思う。毎瞬間の思いを外に出していいんだなと思う。
自分の幸せの余剰分で、身近な大切な人たちにまっすぐに大好きだと言える。素直に抱きしめようと思える。やさしくしたいと思える。
欲しいものは欲しいと言っていい。
嫌なものは嫌だと言っていい。
頑張りたいときには頑張ればいい。
なんだかがんばりたくないなぁという時は堂々サボればいい。
食べたいものがあるならカロリーとか夜だからとか気にせず食べればいい。
それはもう心地よく食べたらいい。
行きたいところがあるならお金も時間も気にせず行ったらいい。
なんだか辛いなというときには誰かに話したらいい。
自分が楽になる考え方をあっさり採用すればいい。
寂しさが湧いてくるときには誰かにハグを求めたらいい。
…でも最近感じていることは、誰かにハグを求めるよりも先にやったほうがいいこと。どうやら、あるみたい。それは、
「自分で自分を抱きしめること」
それが思う存分できて、その上で改めて誰かとするハグは、なんというか、もっと深くて、もっと温かい。
私が私にするハグは、一人きりになること。
一人だけの景色を見に行くこと。
一人だけの空間で自由に、体が動くがままに任せて舞うこと。
あふれてくる。内側から。
世界は私の内側から生まれることを、この目でこの体感で確認しているのかもしれない、なんてことを思う。
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私のことを大切にしてくれる人を大切にすることは、私を大切にすることにつながるんだな、と。そんなシンプルなことを静かに感じる日々だ。
大切にする即ちただ相手に同調すればいいということではない。素のままの自分、相手にとっては不都合かもしれない自分でも何でも、開示していくことなんだと思う。
正直さでしか、世界は正しい速度で回らないのかもしれない。勇気を持ってありのままの自分を開示し続けることは、この上ない誠実さを伴った愛なのかもしれない。
だからもう恐れなくていい。
恐れてしまうときもあるけど、何度でも『大丈夫』って言ったらいい。目の前にいる人の目をまっすぐに見つめてみよう。ほら、大丈夫。
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「千秋ちゃんは、思わず大切にしたくなるような、特別にしておきたくなるような、守りたくなるような、そんな感じがあるんだよ」
最近、親しい友達にそう言われて、もともと自己肯定感が低かった私は嘘だあなんて思った。
でもそのあとで、よく考えるとそうかもしれないと思いなおした。
丁寧に丁寧に、過去を思い出してみる。
これまで私のことを大切にしようとしてくれた人たちはたくさんいた。私が、その気持ちを受け取らないできただけだった。
私だけがいつも、私が幸せになることを最後のところで許せないでいた気がする。
彼女の言葉を、ちゃんと受け取ろうと思った。今私の近くにいて、私を大切にしようとしてくれる人たちの愛をまっすぐ受け取ろうと思った。
でも、こんな風に思えるようになったのも、自分で自分のことをほんとうに大切に、渾身の力でハグできるようになったからなんだと思う。
その上で誰かとするハグが、より深いものになるように。
なんだかふわふわと幸せが増してきて心地が良い。いいな好きだなと思うものは、落ち着いて静かに待っていれば、向こうからやってきてくれるようになってきたから世界はとても不思議で愉快だ。「なんだか世界にすっかり降伏しているな。」そんな感覚になることが多い。
頭がますます悪くなった気がする。
でもそれでいいよって思う。
不感症になるのとは訳が違うんだ。
私は私を、もっと研ぎ澄ませて、もっと心地よくさせてあげておいたらいい。
生きていればいろんなことが必然的に起こるわけで、わざわざ自分から悲しみや不安や孤独を掴みに行くようなこと、もうしなくてもいい。
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自分の初期設定は書き換えていい。
何度でも、何度でも。
人間は自然現象なんだから、固定しなくていい。何かの枠に当てはめなくていい。
変わらなくていい。そのままでいい。
ただ、だれもが自分を、[ もっといい感じの自分 ]にアップデートすることはできる。これからも。何度でも。
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私を大切にしてくれている人たちに、なんかいいねって喫茶店に集う人たちに。そして私を、一番大切にできるようになった私自身に。
心からの、ありがとうを言いたい。
愛してるぜ。