On the way always

日々の記録と、思うこと徒然。自分のために綴ってます。

言葉じゃ表しきれないこと、目には見えないけれど確かに在るもの

「自分の真ん中はなんだろう。なんて言ってるだろう。」

「今、真ん中からYESが出てる」

「今、思わずYESと言ってしまったけど、真ん中はめっちゃNOって言ってるなー」

 

そんな自分とのやり取りを、誰と居ても一人で居ても、常にしてる。

 

最近人との出会いに恵まれている。ほぼ毎日誰かしらが喫茶店を訪れ、寝泊まりし、人に会いに行ったり人の家に泊まったり。

 

人に出会うと、自分に出会うなと感じる。

人と出会って自分が

「何を感じるのか」

「何を見るのか」

「何が好きで、嫌いなのか」

「何を信じるのか」

そんな声に出会い続ける。

 

ただ間髪入れずに人に会いすぎたり影響力の強い人と長く過ごしすぎたりして、静かなひとりの時間を確保できない状態が続くと、今度はこの声が聞こえなくなる。

頭の中がくるくる、足元はふわふわ。そんな状態を感じ始めた時には速やかにカレンダーに「終日完全オフ」の予定を入れる。近々で入れる。人とした約束も、理由をちゃんと話して延期にしてもらったりする。

 

人と出会って自分と出会い、自分に還ってまた自分と出会う。

結局、どこまで行っても世界は自分だなあというところに帰結する。だから世界に一人きり、と言いたいのじゃなくて。世界と自分は一つ、と言い切るのもなんだか躊躇われるんだけど、でもまあ、世界は自分で、自分は世界なんだなと。うまく言えないけど。

 

春頃からずっと続いていた、朝目覚める度に胸の中心がずきずきと痛むような孤独感、のようなものはいつの間にか霧散した。大切な人たちとの出会いのなかで、そしてその人たちに自分をすっかり開いてしまうことで、消えていったように思う。

 

 

 

一昨日、妹に誘われて江ノ島に龍参拝に出かけた。

江の島の中には幾つもの神社や宮がある。

一番奥に祀られているものはどれも「鏡」

 

神様は外側にいるわけじゃない。

あなたの内側にいるんだよ。

だから、自分を見つめて。

 

そんな意味があるみたいだよと、いつか誰かから聞いた。

こういう話を聞くと、昔の人はすごいなと思う。 

言葉じゃ表しきれないこと、目には見えないけれど確かに在るもの。世界の在り方について。みんなみんな知っていたんじゃないかなと思う。

 

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昨日は喫茶店にきさよさんが遊びに来た。

パリ市に住むきさよさんは、去年初めてフランスに行った時にほんの数時間を一緒に過ごした人。もしかしたら2時間にも満たなかったかもしれない。

それなのに、長いヨーロッパ旅行の中、私の中でとても強く印象に残った人のうちの一人。

初めて会った時にもまぶしい人だなと思ったけれど、この夏の再会では輝きを増していた。神がかってさえいると感じたのは大げさな表現じゃない。眼が、美しすぎる。ずっと見ていたくなるような、華やかなのに優しくて、それでいて無邪気な輝き。

再会が嬉しすぎて勢いよくハグをしたら、お互いの足を蹴り合ってしまって爆笑した。

 

「きさよさんが、きさよさんとして存在してくれていたおかげで、私もますます自分は自分でいようって、自分の真ん中を信じようって、そう思えます!」

きさよさんの帰宅後に、そんなことをメッセージで伝えると、

「お互い様!千秋さんがこのままの感じで生きていってくれるなら、私も確信持ってこっちの方向で行けるのですよ。ありがとう、の一言のみ!」

と返信。

 

きさよさんは、今年の冬に人生最大の停滞期を迎え(私の入院期と若干かぶる)そこを明けてみたらなぜか四つ葉のクローバーを見つけすぎる人生に突入したという不思議なひと。

彼女のインスタやFacebookを見ているとわかるのだけど、その見つけ方は尋常じゃない。一度に4、5本。多いと数十本というのが当たり前。道や森や公園を歩いていると、「目が合う」のだという。四つ葉のクローバーと。こういう話を聞くと、私はワクワクが止まらなくなる。なにこの世界は一体?!面白いことが起こるなあ!という想いがまた強くなる。

 

昨日はラムピリカ久々の開店を目論んでもいたのだけど、きさよさんとの再会が嬉しすぎて「開店」の二文字は再会から5秒後に、私の選択肢からすっかり消えた。一緒に過ごす時間はあっという間に過ぎた。

夕方、きさよさんを江ノ島駅まで送っていく途中、並んで歩きながら話していたきさよさんが突然視界から消える。フェ?と思ってる間もなく、彼女は来た道を2歩戻り、民家の前に置いてあった植木鉢を指差す。よく目を凝らして見ると、キタキタ。植木鉢いっぱいに草や花の生い茂る中に、四つ葉のクローバー!

 

私は去年の今頃、虹を見つけすぎる自分がいたことを思い出す。あの頃は、何かに確信めいていた。「今だ」と思うと虹が出る。そんなことが本当に起こり続けた夏だった。

 

「期待しすぎないこと、力抜いていること、過信はしないで、自分を適当に信じておくこと。そんなことが大事なんだろうね。だって、見つけよう見つけようと思うと、全然見つけられないんだもん。四つ葉のクローバー。」

と、きさよさん。

 

その一言に、ほんとうに、ほんとうにそうだよねって思う。

断定しようとすることで失われるもの。つかもうとしすぎることで失うもの。

すべてはすでに完璧で、あとはその事実を自分に許すこと。それだけだ。 

 

 

ありがとう、きさよさん。出会ってくれて、思いを次々と話してくれて。

そしてこれまでもこれからも、自分に正直に、どこまでも好き勝手に生きていてくれてありがとう!

存在そのものに生きる勇気をもらう。だから私はあなたがほんとうに大好きだ。

 

 

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新しい体験に自ら出会い続けて、自分をアップデートし続ける間は人間はもしかしたら、成熟することはあっても精神が老いていくことはないのかもしれない。そんなことを最近思う。

 

自分にとってかつてタブーだったことは、年々私の中から一つずつ姿を消していく。「周りの誰がなんて言おうと、そこに飛び込んでみたくなったらとりあえず飛び込んでみる」という所業を繰り返してきたからかなと思う。

ひとを傷つけてしまうこともあったし、何より自分もたくさん傷ついた。でも、傷つくこと以上に得たもの、というか、「解き放たれたもの」と表現した方が正しいかな。そんなものの多さが圧倒的で、何一つ後悔していない。

情報もろくに集めないで、嗅覚的に「オッケー!」が出たら即とびこめるのは私の愛すべき特技だと思う。だからそれでいいよって自分に言い続けよう。

 

軽やかになったなと思う。同時に、不思議と妙な重厚感も出てきたような感覚がある。

軽やかさと重さ。両方自分には必要で、その両方が多分、今の私を生かしている。

 

うつ病で教員を辞める頃から始まった「死にたい癖」とも付き合いは長くなってきて、「癖」と「自分」とを切り離して眺めるようなこともだいぶ上手になってきた。

何かとネガティブなイメージが付きまといやすい「死」というワードかなと思うのだけど、最近思うことは、「死」は、私の味方なんだなということ。

 

死の存在があるおかげで、私は私の中にクリアな答えを見つけやすくなっている。

 

いつか必ず、死が訪れるから。いつか必ず、この世界は終わるから。

だからこそ、今やりたいことだけやろう。

今目の前にあるものに集中しよう。

好きな人に好きって言おう。

そんな動機を今も貰い続けているように思う。

 

 

 

 

 

 

 

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時間感覚がおかしくて、何日前のことだかはっきりしないのだけど、満月の日の真夜中に妹と二人で江の島の海岸を歩いた。月の光に照らされた波打ち際。打ち寄せては返す波に足首を、時々は膝上までを、何度も何度も覆われながら包まれながら歩く。延々と歩く。水の温度は冷たすぎず、ぬるくもなく、体温に馴染むような心地よさがあった。

 

妹と大切な話をたくさんたくさんしたけれど、話の内容以上に、妹と過ごしたあの時間が私の人生の中で重要なものになった。

あの時の光景は、きっと一生忘れることはないんだろうと思う。

 

妹は私にとって特別な存在で、でもその特別さをどうやって言葉で表したらいいのかわからない。ただ、この特別さは、きさよさんが「四つ葉のクローバーと目が合う」感覚に近いものがあるんじゃないかなと感じている。

 

江の島海岸。深夜1時を回る。

ある大切な一言を私が話した瞬間、私の頭上の向こう側で妹が流れ星を見る。

 

 

妹は明日の飛行機でニューヨークに帰る。