On the way always

日々の記録と、思うこと徒然。自分のために綴ってます。

どんな小さな音も響く

「本当の自分」なんてものは永遠に分からないんだろうなと思う。

 

「自分を信じる」ということが貫けないとき、そんなときにだけ、「ほんとうのこと」が嘘にすり替わってしまうことがある。逆に自分を信じきっているときには、世界の動き方が一変する。どんないい加減な言動であっても信憑性がめきめきと増して、結果的に「ほんとう」になっていたりする。要するに、自分が思い描いたストーリーをいつも生きているのだと思う。

 

自分が何に喜ぶのか、何に深い幸せを感じるのかはできればたくさん覚えておきたいなと思う。見知ったような幸せを再現したいわけじゃないけれど、そして偶然性から生まれる喜びや幸せにかなうものはもしかしたらないのかもしれないけど、「素晴らしい偶然」を引き起こせそうな予感を孕んだ波に乗るのか、それとも白波も立たない、安全そうだけど何だか退屈そうな波にしておくのか。どんな波に乗るのかくらいは、いつでも自分で選べる。

自分はどんな波が好きなのか、知るためには、はじめはどんな波が来てもまずは片端から乗ってみることなんだと思う。 そのうちに身体が覚えていく。

「これたぶん、好きなやつ。」

「次に来てるのたぶん、イヤなやつ。」

 

 

 

停滞するのも悪くない。自分から出てくるものをただ感じているだけの時間。だけどエネルギーはいつだって自分の中を巡って蓄電されていくものだから、散々停滞した後には必ず躍動が待ってる。その時が訪れるまでは安心して停滞しておいたらいい。

 

 

 

ここ最近の私は、躍動か停滞かで言ったらまさに「躍動」、長い長い停滞の時期をやっと越えたのかなという感がある。

ほぼ毎日、ロードバイクで海沿いの道を走り、スタジオをセルフレンタルして一人で好きに身体を動かして自由に踊る。ヨガも再開した。9年も続けていたのにこの1年はすっかりさぼった。鎌倉でアシュタンガの、とても好きなヨギーを見つけて、その人に教わり直すところから始めてる。

どれをするときもTシャツが汗で絞れそうなほどに動く。最近の海と、雨のない6月の陽気の中で過ごしていたらサーフィンも再開したくなった。夏用のウェットスーツを昨日買った。

 

 

喫茶店、ここ10日ほどの間は、約2日に一度の頻度で開店している。

最初の頃は、友人やお客さんの誰かしらが背中を押してくれた。そして「最近は、直前告知で開店すると何かしら面白いことが起こるな」という新しい味を覚えて、開店率上昇に勢いがついた。

ほんとうに不思議だ。つい先日までは、喫茶店はもう閉店するか人に譲るかしか選択肢がないように思えていたのに。

最後のお客さんが帰った後は大体、本とギタレレを持って一人で海に行く。お客さんと一緒に行くこともある。

陽が沈むまでの時間を海辺で過ごす。海の水はこの季節、すでにすっかり温くて、足を浸すのにちょうどいい。

 

身体を動かすと心も巡る。不思議と友達も巡る。気のせいかお金も回り始めた。

 

環境の方は私の躍動期を待たずに少し前から勝手に巡り始めていて、具体的には喫茶店施設のあらゆるものが勝手にリニューアルされていっている。今は屋根の総張り替えという大工事中。来月はNYに住む妹が帰国するので、その時に合わせて、NYの私の好きなお店で喫茶店の新しい食器をたくさん買ってきてもらう。きっと古い食器をたくさん処分するので、ガレージセールがまた喫茶店の前で繰り広げられることになりそうだ。

 

 

親愛なる詐欺師、カヤノさんに、最近喫茶店のプロデューサー的な何かに就任してもらった。表向き?の肩書きは「社外無責任役」(笑)

これまでの喫茶店の企画で、わたしのツボにヒットするものは、原案が大体カヤノさん発信だということに最近気がついて、改めてお願いしてみたら快諾していただいた。

 

カヤノさん発案による次なるトライは、「仮想通貨」(Bitcoin

喫茶店でドネーション制を導入してから早くも半年以上が経つのだけど、これは私の中で軽く命を賭けた(喫茶店の存続を左右するのでw)遊びだった。で、散々遊んでみたら、この遊びは準備が楽チンな上にすごく面白いことがわかったので、今度はドネーションに仮想通貨(このワードの響き…ワクワクする!)を加えて新しく遊んでみようと思ってる。今度は何が起きるかな。

 

「お金を稼ぐために働く」ことに対しては依然として心踊らないし身体もてんで動いてくれないけれど、「お金で遊ぶ」とか、「遊びながら働く」ためなら俄然動けるんだな自分。。。ということを改めて目の当たりにしていて、ああ、この社会で今日も自分が生きているのは奇跡だな…ありがとうございます世界……と思ったりする。

面白い遊びや実験や、とにかく「素敵!」なことをこれからも増やしていきたいと思う。これからも、そんな喫茶店のあり方を面白がったり、愉しんだり、応援したいと思ってくれる人たちが集ってくれたらいいな。一緒に遊んでくれる人が増えたらいいな。

もし人が集わなくなったら、その時はきっと、私が楽しめていない時か、センスが尽きて「御役御免」という時なんだと思う。潔く、隠居するなど考えるとしよう。笑

 

 

 

ここまで書いたものを今読み返してみて、なんか、アクティブな人って感じがするな…と思ったので補足すると、四六時中動いているわけでは全然なく、夜は子どもたちよりも早い時間に布団に入って夢も見ずに深く眠るし、日中も隙あらば寝たり本を読んだりしている。時々不思議な感情がふうわと内側から湧いてきて、じっとして、なんだろと味わっている時も多い。

 

新しいものや躍動をわかりやすく求めているというよりは、動くことで自分の「好き」を再確認しているような時間だなとも思う。

空いた時間には、もうこれまで何度も何度も読み返してきた好きな本や漫画を、さらに読み返している。自分に何度でも刷り込んでいきたくなるような言葉。絵。

そんな中で、細野晴臣さんの世界観が私は本当に好きなんだなと改めて感じてる。彼の音楽もさることながら、著作「アンビエント・ドライヴァー」は何度読んでも、読み返すたびに新しい「未知」にであう感覚があってとても好い。そして不思議と、「未知」なのにどこか懐かしさも覚える。これは何だろうなあ、と思う。深い深いところからの安堵感が生まれる。

 

アンビエント・ドライヴァーから、とてもいいなと思うところをいくらか抜粋して今日の日記は終わりにします。

 

「考えてみれば、太古の時代には自分一人で演奏し、聴くような音楽があった。現在でも、少数民族にはぼそぼそと歌う人たちが多い。また、フィリピンのイゴロット族の鼻笛は、文字どおり鼻で吹く笛なのだが、非常に小さな音しか出ない。どうやら自分が聴こえればいいということらしい。彼らは、自分を通して世界とつながっていることを実感しているのだ。そして、どんなにひそやかな音でも世界に響いてしまうことを知っているのだ。だから彼らには、ひそやかな自分だけの音楽という意識もなければ、孤独感もない。」

 

「脚を骨折したことがある。身動きがとれないほど仕事が忙しく、煮詰まっていた頃、大雪の日に足を滑らせて転んでしまったのだ。おかげで契約はすべて白紙に戻り、半年ゆっくり過ごすことができた。無意識のうちに何かが整うと、よかれあしかれ何かが起こる法則があるようだ。その準備が整った状態を「受けができる」というらしい。常に受けの状態でいることは難しい。一通りの経験をしていないと余裕がないから、何かが起こると慌ててしまう。痛い目に遭わないと、受けは定まらないものらしいのだ。もっとも、僕は元来怠け者でものぐさときている。だから、寝て待つのは一番性に合う。いつの間にか「果報は寝て待て」が身についてしまったのかもしれない。」

(2月に仙骨を痛めて歩けなくなった時、「ああ今の自分に必要なことが起こったんだなきっと」と割と冷静に思えたのは、晴臣さんの影響だったのかもしれないないなと、読み返していて思った。)

 

「かつて、僕は友人からもらった不思議な石を宝物にしていた時期がある。それを失くしてしまった時には、ひどくショックを受けた。だが、その時初めてモノにこだわらなくていいことに気づいた。モノというのは、何かを教えてくれるに過ぎないのだから。その他にも、僕は大切なレコードのコレクションや楽器を失くしている。モノを失くすと、モノとモノの間が見えてくる。知るというのは、結局そういうことなのではないか。」

 

 

無理なく自分に入ってくる、力の抜けたような言葉。

でも多分、うまく言えないけれど、もうずっとずっと昔から、もしかしたら生まれる前から自分の中に在ったことを、晴臣さんが言葉にして話してくれているだけのような気もする。

 

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