「自分が信じた物語」との離別、なんだと思う。失恋について話しています。
最近私は『失恋』をしました。
多分、私ひとりきりでしました。
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二人が共にある未来の可能性を、今この瞬間の気持ちを語りあう時間をたくさん共にした相手と、いちど関係を解消しましょうという話をしたのは1ヵ月以上前の話。
相手は変わらず、きっと元気に生きたいように生きているんだろうなあと思う。(SNSもなにも見なくなったので、知らない。)
だけど私はこの1ヵ月、もう自分でも予想しなかった位のいろっんな感情が出に出まくって困った。大納得をして別れを選んだつもりだったのに、全然一筋縄にいかなくてなんじゃこりゃ!!と思った。溢れ出てくるいろんな感情を前に、自分とひたすらに向き合う時間を作るほかなかった。
その甲斐あってか否か、最近すこしずつ、自分の中で変化が生まれたのを感じてる。
相手や二人の関係性に対する感情にばかりフォーカスが行ってたのを、もっともっと強く自分だけにフォーカスがあたるように集中しているうちに、自分がほんとうは、一番に優先させたいこと。それがはっきりしてきた。一度は忘れてしまったけど、やっとちゃんと思い出せた、というか。それは、
「自分に自分でウルトラ優しくすること」
「好きな状態の自分を、自分で選ぶこと」
に外ならないってこと。
去年の今頃とか本当に、結構上手にできていたんだけどなあと思い出す。
過去にしがみついてもいいことはない。わかっているのに、だけど幸せな過去にしがみつきたくなるというのは多くの人にとって至極起こりがちなことのようなきがする。私はこの1ヵ月近く、そのただ中にいた。
でもそんな中でも時々、ふと冷静になっている自分がいて、そんなときには自分の「痛み」を眺める余裕が少しだけある。
一体、何がそんなに今の私を苦しめているのかなぁ。だって好きな人なら今でもいつでも会いに行ける状態にあるじゃん。連絡だって取れる。なのに、一体何がそんなに私は悲しいんだ??
なんなんだ、なんなんだ?
感じつづけてきた結果、ふたつ、気づいたことがある。
ひとつは、「自分の傷を見てやる」ってことが私には多分必要なんだなということ。(人生通算300回目位)
一緒にいた時間に自分が取りこぼしてきた感情や、自分の中の傷(新しい傷もうんと古い傷も含めて)を『よく見てやる』ってことがとても大切な作業のようで。
一度閉じてしまった心の扉を開いて、奥を見てやる。奥の方でグシュグシュしてた傷に風を当ててやる。
「ああ、辛かったのね。」
「そうか、悔しかったんだね」
「頭にくるよな、そりゃね」
「怖かったんだね、うんうん」
そう自分に言ってやるだけで。それだけで、ひとつ何かが癒しに向かう。ひとつ何かが身軽になる。からりとする。そんな体感覚を感じている。ほんとうにすがすがしく、またひとつ身軽になって前に進むために、私にとってとても大切な行程なんだろうと思う。
自分で自分に一番優しくする。その大切さを思い出せて、そして再び実践しはじめて、初めて、相手に対する愛おしさが蘇ってくる。
ほんっとーに意地悪で、人の気を引くのが上手くて、「Aだ」と私に直接言った次の瞬間ブログに「Bです」と書いてたりして何度ブチ切れたことかわからん。笑 めんどくさい人。毒もある。だけどどこまでもさり気なく優しくて、不意打ちすぎでしょってほどお茶目で、かっこいいときはわたし史上最高かってほどかっこよかった。ほんとうに、大好きだったなあ。でも今の気持ちとしては「もう二度と会いたくない」(笑) 振り回されるの大嫌い。私はやっぱり、私の方が好きだ。
ちょっと話が逸れちゃったけど、もう一つの気づいたこと。それはたぶん今一番言いたいことなんだけど、まさに冒頭に書いたことに尽きる。「自分が信じた物語」との離別が「失恋」なんだと。そんな風に思う。
ほかにも、失恋だったり、失職だったり、失業だったりの「失◯」という言葉のほとんどに「自分が信じた物語との離別」という表現がわりと当てはまるような気がしてる。全部ほんとうは一人でやること、なのかなと。
どれも、他人との関係あってこそ起こりうることだけれど、本当はどれも一人で始めた物語ーーー本当は形のないものに、形を与えようとすること。この手に「得たはず」だという幻想。そのストーリーが、半強制的ないし自然の摂理的に終わらせられるときがくる。だから辛い。痛みを感じるのかなと。
そもそも最初から何も「この手には得て」なくて。だからそもそも何も「失って」もいなくて。あえて失ったものといえば、「この状態がずっと続くはずだという幻想、自分がいちど信じた物語」だけなんだなと。
私はまだ生きていて、大好きな人たちは今も世界にいて、いつだって愛を伝えられる状態が、紛れもない、混じりけのない『今』で。
そう、わたしは最近やっと、
「『失恋』することを自分に許せた」
のかなと。そんな風に思う。
物語を作ることがよくないって言いたいわけじゃない。むしろ描きたい物語が偶発的にも生まれるってだけで、そんな出会いがあったってことだけで、すばらしいなと思う。痛みも苦しみも、喜びも快楽も。全部全部色をもっている。どんな物語であっても、1つでも多く生まれるってことは、それだけその人の人生全体を見たときの彩りが増すってこと。
長い人生の中の、一つの章を自らの手で終えること。名残惜しいね。でも次の章が待ってるよ。さて次はどうしようか。前の章で新しく手にした、たくさんの色の絵の具も使って、次はどんなストーリーを描きたい?
出会ったのなら、生まれたのなら。
丁寧にさよならをしよう。私の中の古い物語に。古い痛みに。過ぎていった愛おしい時間達に。より透明で鮮明になっていくストーリーを、これからも描きたいから。
と。
ここまでが、私が信じている、
「今の私の物語」
丁寧に、限りなく自分と親密になって言葉を選んだつもりだけど。
私は私と、もっともっと仲良くなれそうな気がしている。