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On the way always

日々の記録と、思うこと徒然。自分のために綴ってます。

すべての人間は透明な言葉を話すようにできている

このブログ記事のタイトルは、ある本の帯に書いてあった言葉。気になったので、心にとまったので、タイトルにしてみた。

透明な言葉ってなんだろう。
透明な言葉って、なにか惹かれる響きがある。
透明な言葉を、私は話せているかな。

 

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一昨日の晩は、「夜ノ魔法」シリーズ第2弾、1日店長さんたちによる対談形式の喫茶ラムピリカ開店日だった。

登壇してくれたのは、徹くんとカヤノさん。
一言でいうのなら二人は対極、とまではいかないけど異色。だけど以前、二人が結構仲がよいという話を聞いた時、ああそうなんだろうなと思ったし、なにか嬉しさのようなものすら感じた。

言葉で括ることの危うさ(時として乱暴とも言える)を配慮し始めると何も言えなくなってしまうから、恐れず話し続けるのなら、二人の知性の深さや感性の鋭利さは、大きな大きな宇宙空間の中で似通った場所に浮遊しているんじゃないか、なんて、どこまでも抽象的になってしまうのだけどそんなことを感じる。


二人を見ていると、次は一体何が飛び出してくるんだろう?

まだ見たことのない世界が、想像したこともないような言葉が、一体いつ何時、また飛び出してくるんだろう?

 

そんなワクワク感を、「未知感」を、二人から感じずにいられない。(「未知感」なんだけど、でもどこか懐かしさを覚えたりもするから不思議なんだ)

 

なので、「夜ノ魔法」の第2弾やりたいなと考えていて二人の組み合わせが頭に思い浮かんだ時には、「ワーーー!!これ!面白いことになりすぎるきっと…!」と思わず声に出して興奮してしまった。

二人が話すことで生まれる化学反応のようなもの。それは一体どんなものなんだろう。

 

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昨晩のイベントは至極ピースフルで、ゆるやかで、そして二人の面白さは期待の斜めだいぶ上をいくもので、なんどもなんども涙が出るくらいに笑った。他のお客さんたちも楽しそうだったし、その余韻があってかイベントが終わってもいつまでもラムピリカに残って各々が好きな場所で話をして過ごしていた。

二人の組み合わせでもう一回やって!とお客さんからアンコールをいただいたくらいだ。

事前の打ち合わせは一切なかった。
(今回の収益?の分配について、イベントの途中で私とカヤノさんと徹くんで、お客さんたち全員の前で話してしまったくらいだ。笑)

 

打ち合わせしないのがかえってよかったんだろうね、と、総長が話してくれた。

 

なにかを用意しすぎないこと。うまくやろうとしないこと。失敗してもいい。

予測不能なことが起こる余白が、枠にとらわれない広がりが生まれる余地があること。

そのゆるやかさを許容して、むしろ面白がってくれる人たちがラムピリカには集まってきてる感じがするね。そんなとこが、今のラムピリカの「色」なのかもね。

こんな話が、イベント後泊まっていってくれた総長と夜な夜な話し、朝起きてからも話したなかで出てきた。

 

徹くんカヤノさんのトークは、メニューからオーダーされたものもすこぶる面白かったのだけど、オーダーとオーダーの間に話されるこぼれ話も最高だった。

 

強烈に残ってるのは、もうたくさんあるんだけどその中でも珠玉は、徹くんによるグレゴリーさんの話。(そこかよ!と突っ込まれそうですが)

あまりに面白かったので、カヤノさんが「今日のグレゴリーさん、ていうメニュー毎回作ったら?」と提案していて、これも爆笑になるのを必死に堪えて笑った。(イベントのイメージは一応、上品なホテルのラウンジだから大声出したくないの笑笑)

「?」と思ったひとは、今度のイベント情報をチェックしてください。グレゴリーさんに限らず、このあたりの面白さは、私が話すわけにはいかないのです。目の当たりにしてほしい!


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透明な言葉って、なんだろう。
どんなものだろう。

今一度考える。

 

聖者の話す言葉。

世の真理を言い当てたかのような名言格言。

 

そういうのじゃないだろ。

そういうのじゃないところにしておいてほしい、とどこか頑なにおもう。



私の考えは、ありきたりな表現になるかもしれないけど、「透明な言葉」を言い換えるなら「ありのままの言葉」「お腹の底から出た言葉」なのかなと思った。

 

そのひとの、ありのままの言葉。

清いだけじゃない、美しいだけじゃない。
汚いところも、欲深さも、業のようなものも、自分の中にあるなにもかもを、人間として生まれてきて、今あるありのままの姿を、自分の裸んぼうの姿を受けいれることのできた人。もしくはそれらを直視する勇気をもつ人から発せられた言葉。

なのかもしれない。

全然うまくまとめられてる気もしないのだけど、とにかく言いたい。

うんと幼い頃には、誰もが透明な言葉をもっていたのだろうなとおもう。常識とか倫理とか礼儀とか善悪なんかがまだ介入していない頃の言葉。(もしかしたら、そのときそれは「言葉」という形をとっていなかったかもしれない。)

大人になるにつれて、自己表現の軸が「自分が感じること」から、「社会」や「自分の外側のもの」に一度移行していって、ありのままの言葉は少しずつ失われていって、(失わない人もいるだろうし、失うことが悪いことだといいたいわけじゃない。生きて行く上で必要なことを各々が身につけて、使わないものは削いでいくというだけのこと。)いつの間にかすっかり、たくさんの「知っていること、教えられたこと」に身を包んだ人間になっていく。そういうことが多いんじゃないのかな、って。透明な言葉からは遠ざかるんじゃないのかなって。

でも私が言いたいことはここで終わるわけじゃない。
ありのままの言葉、透明な言葉を失わないまま大人になった人もたくさんいるとおもうし、そして何より素晴らしいなとおもうのは、透明な言葉は一度失ってしまっても、大人になってからは今度は知性をたよりに取り戻すことができるんじゃないかな、ということ。

そのときには多分、ただの透明じゃない。

クリスタルの奥深くからは、カラフルな色味の光がちらちらと透けて放たれたり、少しの翳りもあるかもしれない。そんな複雑な面白みをもった透明になるんじゃないかなって。

 

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昨晩、ラムピリカで皆の前で話をしてくれた二人は、私には「至極透明に近い言葉を話す人たち」に見える。

なにか誇張するところもなく、思い上がっていたりすることもなく、発想はオリジナリティありすぎて愉快痛快。そして、一般的には「かっこ悪い」と言われそうなことでもそのままに話す姿はむしろかっこいい。無理のない「等身大」を感じる。

ほかにもたくさん、大好きな人たちの顔が思い浮かぶと、それは透明な言葉を話す人たちばかりなのかもしれないって感じられた。無性に嬉しい。

だって、「ありのままの自分を認める」「透明な言葉を話し続ける」って、ほんとうはすごく単純なことなのに、でも大人になってからはすごく難しいことになってしまったりするから。

 

私も、もっともっと、透明な言葉を話すようになりたいな。まだまだたくさん見間違えるし、早とちりもするし、濁った言葉を発していることもきっとたくさんある。

でも、お腹の中で感じたことをそのまま声に出して話すことは、ある意味ほんとうに得意だなと思う。(考えることと話すことを分けるという器用さを持ち合わせていないだけかもしれないけど。)

だから、透明な言葉を話す素質はそこそこあるかもしれない。

美しい自分にも、汚い自分にも、気づいていたい。知っていたい。そこから言葉を発していきたい。安心したり、ざわざわしたりしながらね。

 

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なんて言いつつ。
やっぱり世界はどこまでも「わからない」が続く。トークをしてくれた二人のことだって、今日も明日も会う身近な人のことだって、永遠にきっとわからない。

圧倒的に間違えるから、わからないからきっと、人間は、世界は、どこまでも広がるし、どこまでも面白いんだ。

 

今日も、わーとかうーとかきゃーとか言いながら、遊んでいたいのさ。