心の話を軽やかに真剣にできる友達と過ごす時間は楽しくて一瞬ですぎる。今こんなこと感じてるんだとか、聞いてよ最近こんなことあってさとか。
ああでもないこうでもない言いながら、ひとと「考えで遊ぶ」ことがすきだ。
相変わらず人には会っていないけど、メッセージのやり取りでは裸ん坊になって友人たちとよく遊んでいる。
そんな中で、1週間くらい前かな、聞いた話が面白かった。
「人は、思考した時に感じた感情と同じ波長のものを繰り返し引き寄せるんだって。毎回惰性でやってる思考の癖が今までの現実&今目の前の現実を作ってるってこと。
だから、自分の「思考癖」を探すと、なぜ自分の人生が今の状態なのか、理由みたいなものが、なんとなく見えてくるんだって。」
「『思考癖』は、幼少期から信じてきた考え方とか環境とかの影響を受けて作られるから、もしいま生きづらいとか、どうしたらいいのかわからないとか、現状を変えたいとか望んでいるのなら、自分の『思考癖』ーー無意識のうちに自分が信じてきたこと、いつの間にかよく考えることのパターンみたいなものを見つけて、(大事なのはここ!)新たな考え方を植え付けていくと、必ず新しい未来が待ってる。」
なるほどー、わかりやすい話だなと思った。
思考が現実をつくるとはよく聞く話だけど、「思考癖」っていうのは初めて聞く、とてもわかりやすいキーワードだった。私は自分自身にすごく興味があるので、自分の思考癖ははたしてなんだろ?と考えてみた。
いいなと思う思考癖は、
「お金はなんとかなる」
だと思った。
お金は多分なんとかなるから、お金の心配よりも自分のやりたいことやることが最優先。どんなにお金がないときでも、いま欲しいものや食べたいもの、お金を使いたいところに使うことに集中しとこう。
で、お金がなくなったら、なくなったときに考えよう。
お金がない!どうしても必要だ!となったら、そのときにはお金を作り出す方法はきっとアイデアを絞り出しまくれば千通りくらいあるよね!と考えてる。
そしてこの思考癖「お金はなんとかなる」が功を奏しているのか否か、全然お金持ちではないけれど、本当にお金はいつもなんとかなっている。
ここ最近もじつは、嵩んだ入院費のためかどうだか、気づいたら、今月の家賃払えないかも!やばいな!となってた。でもなぜか漠然と、まあ大丈夫かなと思ったまま数日を過ごしていた。
「お金はなんとかなる。家賃も多分大丈夫。それよりも私の中で大切なのはいま猛烈にマウイ島に行きたいってこと。」
そんなことを考えて気楽に構えていた。
そうしたら。数日前、退院祝いにと、20万円を下さる神様のような方が現れた…!
ほええええーーーーーーーーっっ!!!!
✨👀✨👀✨👀✨
ま じ で す か ーーーーーーーっっ!!!!
となった。マウイ島、行けちゃう…!家賃も払えちゃう…!!!
超絶ありがとうございます…!!!✨
拝み倒す勢いでお礼を伝えた。
こんなことがちょくちょくこれまでも起きてきたので、お金のことに関して私は調子に乗ってしまってるかもしれない。根拠の全然ない、変な自信が出来上がってしまってるかもしれない。そのうち痛い目見るのかもしれない(…と書いた後で、この予防線的「思考癖」は打ち消す!と決意。)
その上、近年は、某いばやとかいう人たちの
「ゼロになってからの楽しみ方」
「ゼロになってからがスタートでしょう!」
などという最高に楽しくてクレイジーで愉快痛快アドベンチャーなるものを目の当たりにしすぎたので、お金に関してはもういよいよ、心配の余地がなくなってきてしまった。こまった。大丈夫なのかな。
……大丈夫!!!!
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さて、思考癖の話を引き続き。
お次は、嫌だなって思う自分の思考癖。
探ってみたら、これだって気づいた。
「どうせ愛されない」
わーお…。
なんて、威力のある言葉だろう。自分に向かって重めの一発、バズーカ砲打ち込んでるとでもいいましょうか。
なんでこんな卑屈な感じの思考癖を抱えちゃってるんでしょう。謎です。
…いや、謎じゃないです。理由はなんとなくわかってる。多分、幼少期のあれこれとか、トラウマがうんぬんとか。自信がどうのこうのとか。
でも野暮なので詳しく書かぬ。
付随している感情は、「惨めさ」「悲しさ」「やるせなさ」「怒り」などでしょうか。
でもほんと、何をするにもひょこひょこと顔を出すこの思考の癖は、私の見る世界を時々酷く歪めてる。
大好きって伝えたい人たちになかなか素直に大好きって伝えられない。
大好きな人たちから優しさや親切を受けた時に、素直に受け取れなかったり。
人の咳払い一つで、「ふ、不快にさせちゃった?!!!!」いらぬ心配してみたり。
落ち着けば、大体世界はクリアに見えるようになるし、自分のことをすんなり信頼したり、素直な衝動に従える時ももちろんたくさんある。
だけど、なにか反射的に不安や恐れを感じて、本音とは違うところで言動している時のわたしの頭のなかは、「どうせ愛されない」が占拠してることが多い気がする。
これはなかなかに厄介。
身近なひとたちとの関係を歪めてしまう。
孤独とは違う、望んでもいないような「孤立」を選んでみたりすることもある。
そこでこの思考癖を書き換えることにした。
「どうせ愛されない」
から、こっち。
「どうせ愛してる」
…この言葉、すごくないですか?
この言葉を思いついて、なんとはなしに口に出して言ってみたときの威力がものすごくて、びっくりしてしまった。大発見だ!とすら思った。
「どうせ愛してる」
なにかあるたび、もしくはなにもなくても、
「全部だいじょーぶ!だってどうせ愛してるから」
根拠なんて無くていい。ただ、「この言葉を使うこと」の威力を感じてる。この無謀で無防備な感じが最高にいい。
「どうせ愛してる」にくっつけられる言葉があるのだとしたら、
「自分を、人を、世界を、神を、宇宙を…」
なんでもいい。なにもくっつけなくてもいい。
愛してるかどうかの真偽を確かめることなんてどうでもいい。そこは全然重要じゃなくて、
「どうせ愛してる」
この言葉を自ら放つ、自分に向かって唱えてあげる。
それだけで、随分いとも簡単に、不思議な肯定感や安心感に包まれてしまうものだな!とただただ感嘆した。
言葉のもつ力は、こういう風に利用するのがきっと大正解。
人間が健やかに軽やかに前向きに生きていくにはある種のふてぶてしさのようなものが必要な気がする。自分の脚で自分の人生を歩く、って、こういうことなんじゃないかなって思う。
不安を感じる時、寂しさを覚える時、世界に一人きりのような恐怖に襲われる時。
「大丈夫、だってどうせ愛してる」って言いまくろう。
「お金はなんとかなる」って、根拠もなく言えるように。
望んでもいないような現実に打ちひしがれることが多いのなら、そうなってしまう人はどこかで、自分への信頼感や自分に幸せを許すことを選べなくて苦しんでいる人なのかもしれない。「自分を信頼しない、できない」「幸せになれない」という思考癖を無意識的に繰り返しているのかもしれない。
どこかでそういう人生を、無自覚的に自分自身の手で作り上げてるのかもしれない。
少なくとも私が、負のループに捕まってしまうときはそういう状態の時だと思う。
打破するのに一番必要なのは、多分軽やかに、そう最高に軽やかに!いともあっさり、
「全部おっけー!!!」
「だってどーせ愛してるから!!」
って自分で自分に言ってあげる勇気。
言うだけ自由なんだ。言った後のことは言った後で感じよう。
ひとから嫌なこと言われて傷ついても
「大丈夫、だってどうせ愛してる」
誰かと喧嘩して自己嫌悪に陥っても
「大丈夫、だってどうせ愛してる」
友達いない!
「大丈夫、だってどうせ愛してる」
トラブル発生!死ぬ!
「大丈夫、だってどうせ愛してる」
根拠もなく言い放て。言葉の威力にやられてしまえ。
きっとすべてが時間を経て好転を迎える。
世界に正解なんてものはない。
自分の存在の全部に。選択の全部に。
死ぬほど安心してYESをだせ。
大丈夫、だって
「どうせ愛してる」から!