On the way always

日々の記録と、思うこと徒然。自分のために綴ってます。

「大好きな人が世界にいること」がホームになる

あらゆる衝動に抗うことに集中している。

ここに書いた衝動というのは、「喫茶店開きたい」「イベント開催したい」「友達のお誘いに乗りたい」「展覧会に行きたい」などなど、主に身体を使ってすることに対する衝動。

 

退院して10日くらい。仙骨の調子は悪くない。

でもどうやら「まだ」みたい。完治はもう少し先。

 

1日に1、2回は1キロくらいの散歩をするのだけど、1ヶ月の歩行不可生活ですっかり筋肉がなくなってしまったんだろう、今まで筋肉痛になったことのないような箇所に筋肉痛が起きている。太ももの側面とか、裏側とか、腰から臀部にかけたあたりとか。すごく面白い。今筋肉痛になってるのはわかりやすく「歩くための筋肉」なんだと思う。

 

今は痛み止めの一切を飲んでいないのもあって、等身大の痛みを感じる。

仙腸関節を中心にピリピリとした痛みが走る。

調子がよくない時には、左脚の付け根から足裏にかけてまで、見事に動かない。

 こういうのがなくなるまでは、無理しないことだなと思う。

身体の声を聴こう聴こうと意識しているのだけど、具体的にどうやって?と問われると、私もよくわからなかったので笑、メモアプリに都度都度書くようにしている。

「身体、今どうしたい?」

問うと、

「寝てたい」

とかすぐ出てくる。笑

 

 f:id:Naima_c:20170330181157j:image

去年の今頃のお写真。

ーーー

 

いい文章を読むと、ああ、いい文章を書きたいなと思う。

美しい絵をみると、美しい絵を描きたいなと思う。

可愛い人を見ると、かわいくなりたいなと思う。

いい音楽を聴くと、いい音楽を奏でたいと願う。

至極自然な感情だと思う。

 

最近はそういう意味でのやりたいことが多くて、1日は充実している。

文章を読む。文章を書く。

好きな画集や写真集やアート雑誌を風呂で時間かけて眺める。

イデアが湧いて、ブラックボードに書き出す。

好きなアーティストの写真を見る。

身にまとう春物の服や次にしたいヘアスタイルを考える。

ギターで好きな歌を弾く。

ギターコードを気にせずギターを鳴らす。

 

 

 

最近SNSを大幅にやめてみた。

FacebookTwitterInstagramのアプリはiPhoneから消した。

書いたブログをFacebookにシェアしたりもするけど、Facebook自体はほとんど見に行っていない。

あとは、ちょっと情報量が多いなと感じたLINEのグループからは思い切って脱退。

 

これらのことが今、素晴らしい影響を私に与えてくれている。自分のことにとても集中しやすくて、先に書いたようなやりたいことを次から次へとやれている。人とのコミュニケーションは若干減ったものの、不思議と、以前は強烈に感じることもあった寂しさが、最近はほとんど感じられなくなった。

 

SNSの中には、嬉しさや楽しさや驚きがあったり、人とのつながりや安心感を感じられることもあったけど、今は、積極的にネット上のやりとりを確認しなくても「大好きな人が世界にいること」が自分のホームになっている。そんな感覚がある。うまく言えないのだけど、わたしはひとりじゃない。ひとはひとりじゃない。そんな実感が日に日に強くなる。

 

人に会いたいなとか、あの人どうしてるかなとか、たまに思い出す人もいるけれど、その人のSNSを見に行っても、やっぱり本人に会わなきゃわからないことってたくさんあるよねと思う。本当は悲しいときにも、楽しいと書けるのが人間だったりもする。

だから、このお籠り期間を経て身体の自由がもっと効くようになったら、もっともっと人に、生身のその人に会いに行きたいと思っている。

 

 

春休みのみずきと鈴が一日中同じ屋内にいて(みずきは数日前からおばあちゃんと一緒に行動しているけど)学校に行くとか行かないとか、時間割がどうのとか宿題のこととか、何も気にせずに死ぬほど好きなことを黙々とし続けているのもすごくいいなと感じている。

 

主に彼女たちは、好きなタイミングで好きなものを食べ、好きなアニメをYouTubeで好きなだけ観て、開店予定の立たない喫茶店の中に難民キャンプをこさえたり(中はソファやテーブルやランプがあったりと、超快適空間だった)、好きなタイミングで友達と遊ぶ。工作をしたい時にはしているし、毎日訪問してくる野良猫にはせっせとご飯を与えている。(近所のコンビニが閉店セールでキャットフードを半額で販売していたので、鈴はお年玉で棚にあった全部を買い占めていた笑)

 

f:id:Naima_c:20170330181414j:image

難民キャンプ@ラムピリカ

 

みんな自分の好きなことを、好きなようにやっていて、おかげで私も自分のことに以前より集中しやすい。気が向いたら時々一緒に映画を見たり、ご飯を食べたり。なんだかすごく平和だ。

 

 

ーーー

 

「とどのつまり自分のことしか書いていなくていいな」と思う文章が好きだ。

誇張も誇示もされずに、等身大のその人が、ためらったりしながらもそのまま書き表されているような文章。

どこかで聞いたような台詞とかじゃなくて、世の真実はこうだとかそういう話じゃなくて。その人が感じたことがそのまま書いてある文章を読んでいると、人の温度を感じて嬉しくなる。

 

 

記事のタイトルを「大好きな人が世界にいることがホームになる」と書いたけど、「ホーム」というのは、「拠り所」とも書き換えられる気がしていて、私は以前は、もっとわかりやすいものをホームにしたがっていた。

「家」とか「法的な家族」とか「経済的な安定」とか。

 

今でも、そういうものを拠り所にしたがってる時はあるし、逆にそれらで大いに遊べている時もある。でも、それらを「手に入れて、維持すること、守ること」に意識が行き始めた途端に、毎度次第に感じ始めるのは肩にグッと硬い力が入っていくような息苦しい感覚と、心が枯れていくような感覚。

「家」とか「法的な家族」とか「経済的な安定」を守るために、そこに関わる人たち、純粋な「大好き」だけで愛せていた人たちを、いつの間にか、力を込めた手のひらで握りしめることで「愛している」と錯覚するような、重苦しい感覚。

そんなことをしてしまっては、その人がその人らしく、生き生きと輝いて生きることの妨げになってしまうし、何より私自身が一番苦しい。

恐れは愛を殺してしまう。

 

ほんとうの優しさって、愛って、なんだろう。

いつだって考えちゃう。いつだって考えちゃってきた。

 

未だにわからないけど、ただ体感覚をいつも研ぎ澄ませておきたいということだけは、確かにある。自分の中にある。

その愛し方で、重苦しいなら、きっと愛から少し外れたところにいるよ。

その愛し方で、清々しいなら、身が軽いなら、暖かいなら、きっと愛の真ん中にいるよ。

 

大好きな人たちがただ、世界にいてくれるということ。

このことがホームになる。

 

私は自分の身体を治しながら、安心して今日もここで遊んでる。