On the way always

日々の記録と、思うこと徒然。自分のために綴ってます。

火が細るとき最後に残るのは

‪自分の場合、なのだけど。

 

心身共に弱り切ってしまっている時、いつも以上に人に優しくできる、というか、自然と人に対して穏やかに丁寧に接したくなっている自分がいるなと気づくことが多い。

 

失恋したときや、症状の辛い病気をしているとき、あとは、どうしようもない寂しさなどにやられてるときなんかが思い返される。

 

そして、じつは今も。かなり手痛い満身創痍をお食らいもうしております。なので(?)わたしは今、とても穏やかです。

 こんなにも動けなくなること、人生で初めて。そのため気づくことはとても多い。

 

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仙骨にヒビが入っていることがバレンタインデーにわかり、総合病院に入院が決まった。

ここ5日ほど、身体の痛みにより食欲が出なくて、殆ど食事がとれていない。さらに、自力歩行ができない。どんな動作も起こそうとするたび激痛が走り、必然的に布団の中で横になりつづけていて、寝返りすらままならない。

一昨日から昨日にかけては、痛みが悪化してきて目が醒める瞬間から眠る瞬間まで、ほんとうに、iPhoneを操る手以外は微動だにできなくて、辛かった。なのになぜか、何かを懐かしむかのように、静かな気持ちでいる自分がいた。

ああ、日が昇る。日が沈む。

家の外で動物の声がする。

動けない自分をどうにかしようなんて欲は湧かず、そんなことよりも五感で感じ取れるあらゆることを、静かに感じ取っていた。

 

 

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最初の話に戻る。

弱った自分をいたわってほしくて、ひとに優しくしている、という感覚はなくて(そんな器用なことする余裕なんて全然ないくらいのときの話をしてます) はてさてこの優しさというか、至極ゆったりと穏やかな気持ちはどこから生まれてくるんだろう。

 

そんなことを考えたとき、表現としては大袈裟かもしれないけど、酷く傷ついているときの自分は多少なりともどこかで「死を意識している」のかもしれないと思った。(もしくはある種の諦めか。単純に余力が残っていないだけかも?)

 

 

ひとが限りなく弱くなる時…命の火が細くなるとき。ドロっとした感情も噴き出してくるかもしれない。でも、行動の選択肢が極端に減り、速度が極限まで落とされて、処理できる情報も減り、そんなときに人間は最後には透明に近づくのかもしれない、なんてことを思った。

静かな悲しみの中で、命の理りのすべてを受け入れていくのかもしれない。(そうなったときには実際、悲しみは存在しないのかもしれない)

 

あらゆるものがひとから物理的に削ぎ落とされていく時、もしかしたら、最後に残るのは至極シンプルなもの、「善性」や「純粋な愛」のようなもの、なのかもしれない。‬

そうだといいな。そうじゃなくてもよいけど。

 

死を取り扱う映画にも色々あるけれど、あからさまな悲しみや死に対する重さを表現するものよりも、死に対する静かな清々しさのようなものや、愛を表現しようとしてるのかな、と感じる映画のほうが、私は好きだ。

 

死生観がいいなとおもう映画の

おすすめはこちら。

ハル・アシュビーハロルドとモード/少年は虹を渡る (字幕版)」
https://itun.es/jp/5SNAM

 

真っ青な空が見える病室のベッドの上で、ひとり考えてる。(特等席です)

 

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