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On the way always

日々の記録と、思うこと徒然。自分のために綴ってます。

種がまかれる

言葉に宿る力が消えませんように。

 

「いつか誰もが花を愛し歌を歌い

 返事じゃない言葉を話し出すのなら

 何千回ものなだらかに過ぎた季節が

 僕にとても愛おしく思えてくる」

 

「神の手の中にあるのなら

 その時々にできることは

 宇宙の中でよいことを決意するくらいだろう」

 

 

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種がまかれる。

子どもたちの中に種がまかれる。

それは芽がでることを期待してまかれるのじゃない。

いつの間にか、誰もが何をも意図をしないところでまかれてる。 

 

私が美しいと感じるものに、私が触れたいときに触れ続ける。

私が静かにわがままを通してる。

抱きしめたいときには、ハグしようよと伝えてみる。

それだけ。それだけで十分。

 

いつの間にか、子どもたちが、私が好きな歌の一つを口ずさんでいる。

毎日弾いているギターを、真似していつの間にか弾いている。

このコードの押さえ方を教えてと問うてくる。

花瓶に生けた花の置く場所を決めるために悩んでいる。

頭にきた!と顔を赤くしてすっかり憤慨する。

どこまでもくだらないことでお腹を抱えて笑い続けてる。

好きな人ができたみたいだよと恥ずかしそうに話す。

友達に会いたいからと家を飛び出していく。

 

いつの間にか。

そうそれは、いつの間にか。

ゆっくりと歩く景色の中で、いつの間にかまかれている。

ゆっくりと歩く景色の中で、いつの間にか芽を出していることがある。

ゆっくりと歩く景色の中で、花が咲くこともある。

 

それでいい。

はじめから完成しているあなたたちに、私が教えることは何もない。

私が私である限り、あなたたちもきっと安心して、あなたたちでいられるのでしょう。

 

種はまかれる。

それはいつも、いつのまにかまかれている。

そしてその先は、いよいよ私は知らない。

 

 

私からまかれたものなんて、ほんとうは実は些細なもので、無数の種が広い世界には散らばっている。

 自分の足で歩き始めた君たちの速度は光。

見たことも聞いたこともないような世界へと広がっていく。

私は恍惚として、その美しさに、その新しさに感心したり、夢中になったりもする。

 

ずっとずっと先へ行く。

追いつけないよ、もはや。

 

 

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言葉に宿る力が消えませんように。

私が見たい世界へとどうか続きますように。

 

すべての人間は透明な言葉を話すようにできている

このブログ記事のタイトルは、ある本の帯に書いてあった言葉。気になったので、心にとまったので、タイトルにしてみた。

透明な言葉ってなんだろう。
透明な言葉って、なにか惹かれる響きがある。
透明な言葉を、私は話せているかな。

 

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一昨日の晩は、「夜ノ魔法」シリーズ第2弾、1日店長さんたちによる対談形式の喫茶ラムピリカ開店日だった。

登壇してくれたのは、徹くんとカヤノさん。
一言でいうのなら二人は対極、とまではいかないけど異色。だけど以前、二人が結構仲がよいという話を聞いた時、ああそうなんだろうなと思ったし、なにか嬉しさのようなものすら感じた。

言葉で括ることの危うさ(時として乱暴とも言える)を配慮し始めると何も言えなくなってしまうから、恐れず話し続けるのなら、二人の知性の深さや感性の鋭利さは、大きな大きな宇宙空間の中で似通った場所に浮遊しているんじゃないか、なんて、どこまでも抽象的になってしまうのだけどそんなことを感じる。


二人を見ていると、次は一体何が飛び出してくるんだろう?

まだ見たことのない世界が、想像したこともないような言葉が、一体いつ何時、また飛び出してくるんだろう?

 

そんなワクワク感を、「未知感」を、二人から感じずにいられない。(「未知感」なんだけど、でもどこか懐かしさを覚えたりもするから不思議なんだ)

 

なので、「夜ノ魔法」の第2弾やりたいなと考えていて二人の組み合わせが頭に思い浮かんだ時には、「ワーーー!!これ!面白いことになりすぎるきっと…!」と思わず声に出して興奮してしまった。

二人が話すことで生まれる化学反応のようなもの。それは一体どんなものなんだろう。

 

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昨晩のイベントは至極ピースフルで、ゆるやかで、そして二人の面白さは期待の斜めだいぶ上をいくもので、なんどもなんども涙が出るくらいに笑った。他のお客さんたちも楽しそうだったし、その余韻があってかイベントが終わってもいつまでもラムピリカに残って各々が好きな場所で話をして過ごしていた。

二人の組み合わせでもう一回やって!とお客さんからアンコールをいただいたくらいだ。

事前の打ち合わせは一切なかった。
(今回の収益?の分配について、イベントの途中で私とカヤノさんと徹くんで、お客さんたち全員の前で話してしまったくらいだ。笑)

 

打ち合わせしないのがかえってよかったんだろうね、と、総長が話してくれた。

 

なにかを用意しすぎないこと。うまくやろうとしないこと。失敗してもいい。

予測不能なことが起こる余白が、枠にとらわれない広がりが生まれる余地があること。

そのゆるやかさを許容して、むしろ面白がってくれる人たちがラムピリカには集まってきてる感じがするね。そんなとこが、今のラムピリカの「色」なのかもね。

こんな話が、イベント後泊まっていってくれた総長と夜な夜な話し、朝起きてからも話したなかで出てきた。

 

徹くんカヤノさんのトークは、メニューからオーダーされたものもすこぶる面白かったのだけど、オーダーとオーダーの間に話されるこぼれ話も最高だった。

 

強烈に残ってるのは、もうたくさんあるんだけどその中でも珠玉は、徹くんによるグレゴリーさんの話。(そこかよ!と突っ込まれそうですが)

あまりに面白かったので、カヤノさんが「今日のグレゴリーさん、ていうメニュー毎回作ったら?」と提案していて、これも爆笑になるのを必死に堪えて笑った。(イベントのイメージは一応、上品なホテルのラウンジだから大声出したくないの笑笑)

「?」と思ったひとは、今度のイベント情報をチェックしてください。グレゴリーさんに限らず、このあたりの面白さは、私が話すわけにはいかないのです。目の当たりにしてほしい!


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透明な言葉って、なんだろう。
どんなものだろう。

今一度考える。

 

聖者の話す言葉。

世の真理を言い当てたかのような名言格言。

 

そういうのじゃないだろ。

そういうのじゃないところにしておいてほしい、とどこか頑なにおもう。



私の考えは、ありきたりな表現になるかもしれないけど、「透明な言葉」を言い換えるなら「ありのままの言葉」「お腹の底から出た言葉」なのかなと思った。

 

そのひとの、ありのままの言葉。

清いだけじゃない、美しいだけじゃない。
汚いところも、欲深さも、業のようなものも、自分の中にあるなにもかもを、人間として生まれてきて、今あるありのままの姿を、自分の裸んぼうの姿を受けいれることのできた人。もしくはそれらを直視する勇気をもつ人から発せられた言葉。

なのかもしれない。

全然うまくまとめられてる気もしないのだけど、とにかく言いたい。

うんと幼い頃には、誰もが透明な言葉をもっていたのだろうなとおもう。常識とか倫理とか礼儀とか善悪なんかがまだ介入していない頃の言葉。(もしかしたら、そのときそれは「言葉」という形をとっていなかったかもしれない。)

大人になるにつれて、自己表現の軸が「自分が感じること」から、「社会」や「自分の外側のもの」に一度移行していって、ありのままの言葉は少しずつ失われていって、(失わない人もいるだろうし、失うことが悪いことだといいたいわけじゃない。生きて行く上で必要なことを各々が身につけて、使わないものは削いでいくというだけのこと。)いつの間にかすっかり、たくさんの「知っていること、教えられたこと」に身を包んだ人間になっていく。そういうことが多いんじゃないのかな、って。透明な言葉からは遠ざかるんじゃないのかなって。

でも私が言いたいことはここで終わるわけじゃない。
ありのままの言葉、透明な言葉を失わないまま大人になった人もたくさんいるとおもうし、そして何より素晴らしいなとおもうのは、透明な言葉は一度失ってしまっても、大人になってからは今度は知性をたよりに取り戻すことができるんじゃないかな、ということ。

そのときには多分、ただの透明じゃない。

クリスタルの奥深くからは、カラフルな色味の光がちらちらと透けて放たれたり、少しの翳りもあるかもしれない。そんな複雑な面白みをもった透明になるんじゃないかなって。

 

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昨晩、ラムピリカで皆の前で話をしてくれた二人は、私には「至極透明に近い言葉を話す人たち」に見える。

なにか誇張するところもなく、思い上がっていたりすることもなく、発想はオリジナリティありすぎて愉快痛快。そして、一般的には「かっこ悪い」と言われそうなことでもそのままに話す姿はむしろかっこいい。無理のない「等身大」を感じる。

ほかにもたくさん、大好きな人たちの顔が思い浮かぶと、それは透明な言葉を話す人たちばかりなのかもしれないって感じられた。無性に嬉しい。

だって、「ありのままの自分を認める」「透明な言葉を話し続ける」って、ほんとうはすごく単純なことなのに、でも大人になってからはすごく難しいことになってしまったりするから。

 

私も、もっともっと、透明な言葉を話すようになりたいな。まだまだたくさん見間違えるし、早とちりもするし、濁った言葉を発していることもきっとたくさんある。

でも、お腹の中で感じたことをそのまま声に出して話すことは、ある意味ほんとうに得意だなと思う。(考えることと話すことを分けるという器用さを持ち合わせていないだけかもしれないけど。)

だから、透明な言葉を話す素質はそこそこあるかもしれない。

美しい自分にも、汚い自分にも、気づいていたい。知っていたい。そこから言葉を発していきたい。安心したり、ざわざわしたりしながらね。

 

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なんて言いつつ。
やっぱり世界はどこまでも「わからない」が続く。トークをしてくれた二人のことだって、今日も明日も会う身近な人のことだって、永遠にきっとわからない。

圧倒的に間違えるから、わからないからきっと、人間は、世界は、どこまでも広がるし、どこまでも面白いんだ。

 

今日も、わーとかうーとかきゃーとか言いながら、遊んでいたいのさ。

 

へたでもやったれ

歌といい、絵といい、文章といい、作りながら自分で「わ下手だな!」とよく思うのだけど、とにかく手数出そうということでやりたいことをやりたい時に、やりたいようにやらせてもらってる今日この頃。

「下手だな!」は、決して自分を卑下したり謙遜するために言っているわけじゃなくて、厳密にはただ「技巧がないな」「技術がないな」程度のもので、自分が作った歌も絵も文章も、結構好きだ。
「センスないな」は使うと辛くなる言葉なので(笑)、使わないとして、でも手数出しているうちに磨かれていくものだろうと勝手に睨んでいる。技巧や技術も同じで、気がついたら身に付いていた位の感じがいいな。(身につかなくても全然いい)

「やりたい」が生まれたら儲け物。下手でもなんでも即やったれ。

 



数年前まで小学校で図工教員をしていた。
子どもたちが作品を作るのを見ていて、いつも子どもたちがうらやましかった。
ひとたびパステルを、筆を、はさみを、段ボールカッターを握れば、身体が動くがままに動いて、ほんとうにのびのび楽しそう、というか「楽しい」なんて言葉を表出させる余地もないくらいの集中、夢中になりすぎてよだれ垂らしちゃうような凝縮した集中を何度も目の当たりにした。絶対邪魔したくない類のやつ。褒め言葉ですら割り込ませたくない。一体どれほど密度の高い時間を過ごしているのか、と。
出来上がるものには「その子のそのまんま」が現れすぎる。その子の命が炸裂しすぎている。そんな作品群を前に、子どもたちは師匠だと思った。「私が美術の学校で学んできたものってなんじゃーーい!なんでこんなに私は私の線一つ引くのに苦労してるんじゃーーーーい!!!!」叫んだ。



「なんで」の答えは、今思えば多分単純。「うまくやろうとしすぎていたから」「考えてばかりで手を止めていたから」なのかな、と。

 

技術や技巧は、いってみれば練習さえすれば、習得の速度に差こそあれど誰でも身に付けられる?ものだけど、「その人らしさ」だけは世界で唯一のもの、誰にも真似ができない。

 

師匠に倣って、「うまくやろうとすること」を放棄して「考えてばかりで手を動かさない」も投げ捨てて、下手でもなんでもとにかく手を動かすこと、楽しいと感じる方に振れていくこと、いいなと感じるものをただ表すこと。今はそっちに集中したい。きっと大昔はできていたこと。安心して取り戻していこう。

 

人の評価も正直気になる。全然気になる。だけど、一番ストイックに集中しておきたいのは、「なにか作る自分に対して、この世界で自分以外の全員がNOと言ったとしても、自分だけはYESと言ってる?」…なんて、また頭で堅苦しいことを考えている余地もないくらいの集中を、目の前のものにとりあえず注いどけ!YES!!


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昨日久しぶりに喫茶店を開店した。
実に2ヶ月ぶりだった。



途絶えることなくお客さんや友人が訪れてくれて終始賑やかだった。
嬉しかったのだけど、自分のモチベーションというか、いろいろ変わったなと感じることもあった。

丁寧に珈琲を淹れて、丁寧にパンケーキを焼く。目の前の動作一つ一つに集中している時間は、かつては「自己表現の一部」のように感じていたのだけど、今はなにか黙々と自分を整えるというか、自浄効果のある手作業的なものになっているような。
(それでも、決められた作業でも続けているうちに時折ひらめきは降りてくるもので、パンケーキの新メニューが誕生したりもした。)

 

今朝起きてみて、体も心もかなり元気なので「今日も開店する」という選択肢もあったのだけど全然そういう気にはならず。

雨音を聞きながら文章を書いたり、新しいイベントを企画したり、友達と電話でおしゃべりしたり、絵を描いたり歌ったりして過ごしている。

 

うまく言えないのだけど、喫茶ラムピリカの開店が、以前よりもさらに気楽なものになったと言うか。数多あるやりたいことの中で、比重の軽いものになったと言うか。位置的には経済面での生活を支える?主柱のようなもののはずなのに、気持ち的にはすごく軽やかに息抜いて開店できる。そんな新しい感覚を覚えていて、なんだかいま、とってもとってもよいのです♡

 

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こちらの画像は昨日発掘されたもの。去年の12月にはじめてステージで踊った時のもの。

この時もやっぱり、技巧はなくて、だけども最高に最高に楽しかった。

それが滲み出るくらい、私こんな笑顔できるんだ!(撮ってくれたちーちゃん、ほんとに神フォトグラファー!!!)とびっくりしたので嬉しくて掲載。

身体も少しずつ整えていって、早くまた踊りもできるようになりたいな。(多分今度は、とりあえずしばらくは人に習わないで 勝手に踊ってる気がする。)

 

とりあえず、やったれ。

下手でもなんでも楽しんでしまえ。GO!

人、人、人。

歩くリハビリも進行中ですが、対人のリハビリも現在、絶賛同時進行中です。

入院をきっかけにして、2ヶ月も自分の内にばかり向かう日々が続いたのもあってか、最近人と会う機会が増えてきて、誰かしら会うたび、最初はどきどきまぎまぎしている。

 

対人リハビリの一発目はまゆさんの登場だった。1週間くらい前。

あの最高にピースフルでキュートなまゆさんに対してですら、最初緊張して固まってしまっている私がいた。「人免疫」落ちすぎている自分にびびりました。

 

そして数日前には圭吾さんが突然江ノ島まで遊びに来てくれて、めっちゃ嬉しかったくせに、どぎまぎしまくりすぎて緊張で疲れてしまったのか、一緒にしばらく歩いた後で突如「私はここでUターンします」というわけのわからない挙動を繰り広げてしまった。

 

昨日開催された圭吾さんの生誕祭は、死ぬほど行きたかったけど、多人数が集まる場所には心身ともにまだついていけなさそうだと判断して、自宅にてライブ配信を観ながら遠隔参加。(でも代わりに、人生で初めて歌を一曲完成させて、動画に収めて、人生で初めて歌をバースデープレゼントとして贈ることができた。協力してくれた皆々様さまさまさま、受け取ってくれた圭吾さん。ありがとうすぎた、ありがとう…!!!)

 

少しずつ少しずつ、対人の感覚を取り戻しているように思う。

自分を保ちながら、人と接するこのバランス感覚。と言いますか。

 

今日は隣人ペコさんのライブがラムピリカであった。

ペコさんのファンからお友達から、久しぶりましての喫茶店常連さんから、初めましての方から、3ヶ月ぶりましてのえりかさんから、最強の助っ人ひとみさんから、たくさんの人と喫茶店で会えた。

 

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ペコさんのライブをラムピリカで見せてもらうのは今回で3回目。

ペコさんのライブ、毎回色が違うのだけど、今回はペコさんの世界感が極まってきた、際立ってきた感があって、それでいて声に透明感が増していて、なんだかとてもとても嬉しかった。

 

誰かが自分を表現をして、そこに人が集まって、一緒の時間を過ごして、表現を共有して、ああなんかいいな、すごくいいな。私ここに居られてほんとうにラッキーだな…。

自分が作った場所ではあるけれど、そんな風に思った。

つくづく思う。どんな場所でも、人が集まって、人が表現できてなんぼだな。

 

3日ほど前の晩はまゆさん、カヤノさん、まさねえ、みずすずさんと一緒に晩御飯をラムピリカで食べた。ご飯のたくさん乗ったテーブルを囲んで多人数で夕飯を食べるのは久しぶりで、ああいいなあこの感じ、やっぱりいいなあって、なんかもう全然うまく言えないんだけど嬉しかった。

 

人に会うたび、一緒の時間を過ごすたび、再確認する。

私は人が好きだ。人と会って、人がその人自身のことを話してくれるのを聞くのが好きだ。人と一緒に過ごすことで出てくる自分がすごく好きだ。

家族とか友達とか恋人とか、役割とか境界なんかが一切なくなっていって、それでいて好きなだけ好きな人と一緒に居られるという、この感覚がすごく好きだ。

 

だいぶスムーズに歩けるようになってきたのもあって、今週は喫茶店の開店日をたくさん設けたいなって思ってる。

 

引き続き、絶賛対人リハビリ中。歩行もリハビリ中。

ちょっとずつ社会復帰?するよ。

 

 

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中学時代からの大切な友人のお母さんが昨晩亡くなった。今日の昼頃友人から連絡があった。

 

中学生の時から高校大学、結婚してからも、しょっちゅう泊まりに来る私を笑顔で迎えてくれた優しい人だった。

みずきや鈴も、赤ちゃんの頃たくさん抱っこしてもらった。抱っこしたまま、可愛い可愛いと言いながら勝手にどこかに散歩に出かけてしまうような可愛いお母さんだった。大好きな人だった。

 

報せのメールを読んで、胸がぎゅっと痛くなって、痛みのあるところから熱を帯びた涙がぐうっと顔の方まで登ってきた。苦しい。悲しい。やるせない。切ない。

もう会えないという悲しみもあるけれど、それ以上にああ、人は死ぬんだと思った。絶望とは違う。ただ、目の当たりにした。当たり前のことだけど、死ぬんだ。遠いところへいつか必ずみんな行くんだ。私たちみんなに残された時間は短い。限りがある。

そんな儚さを目の当たりにして、感じすぎてしまって、泣けてきたのかもしれない。

隔たりなんて作ってる場合じゃないよ。遠慮なんてしてる場合じゃない。

だからこそ、ね。大切な人をいま全力で愛そう。

 

 

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10日後にマウイ島に旅立つ。

お金全然ないのに、でも行きたい行きたい、いますぐ行きたいと思い続けていたら思いもせぬところから臨時収入。

これは「行け」ってことだなと判断して即航空券を予約して、現在に至る。

この話を、今日久しぶりに会う友人に話したら、

「へー!なるほどなるほど……全然参考にならない!笑」

と言われて、「その感想はウルトラ素直でいいね!!もっともだ!!!笑」

と爆笑した。

 

クレイジーだよね、非常識だよね、と自分でも思う。

でもすごく楽しい。明日のことなんてわからなくていい。

だけど多分、私は明日死んでも後悔しないだろなと思う。

未来のことを思い描くことはできても、今やりたいことを後回しにできるほどにはできた大人には、どうやらなれなかったみたいだ。現時点では、ですが。

そんな自分じゃ、だめかしら…と長年思って生きてきたけど、でも最近はふと気づけば周りには、そんな自分に「いいね!」を出してくれて、その上一緒に遊んでくれる人が増えてきてる。

 

仲間はいた。ありがたや、ありがたや。

神さま本当にありがとう。。。

 

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「大人」と 「こども」の境界も、どんどんわからなくなるような日々だ。

 

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最近、自分より年下の人にお金をあげる機会が増えたなと思う。

自分だって全然お金ないくせに、「この人の生き方素敵だな」って人に出会うと、しかも私よりも年下だったりするとついついお金を渡してしまう。もしくはご飯をいっぱい食べさせたくなる。

純粋に、「もっと行け!なにをしてもいいから、なにもしなくてもいいから生存してくれ!」って思う。

 

今日のライブ、飲食代の売り上げはぴったり1万円。

バリスタとして腕を上げまくっていたえりかちゃんに3千円。

最強の助っ人として活躍してくれたひとみさんに3千円を渡した。

二人の生き方が、存在そのものが、最高に素敵だったから。

生きてね、って伝えた。

ラムピリカの取り分は4千円。はっきり言って、ちゃんと計算したら大赤字だと思う。でもなんだかうまく言えないけど、このお金の使い方はすごく正しいな!っていう確信みたいなものがあって、やけに清々しい。(逆に出し惜しみした時の気持ち悪さったらない。皮膚一枚全部脱ぎたい、みたいな気持ちになる。笑)

 

でもこれができるのも、私自身が最近、私よりも年上の人にお金をいただく機会がすごく増えたことが大きい気がする。なんだかよくわからないけど、「生きてね」って言ってもらってるんだと思う。(危なっかしくて見てられない、もあるかも笑)

 

このお金の流れはすごくいいなって、肌感覚として感じている。 

 

 

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たくさんの人の思いやりを受けて生きていることを、今感じている。

ここ三日ほど、たまたま偶然だとは思うのだけど、遠く離れているところに住んでいる友人たちから郵送で贈り物が届くということが続いた。

「退院おめでとう。なんだか楽しそうで良いね。」

ってメッセージが添えられていることが多い。

みんな、私のブログを読んでくれている人達だった。

 

私としては、自分のみっともなさをさらけ出してごめんなさい。という気持ちもあったりするのだけど。

見守ってくれている人がいること。気にかけてくれる人がいること。応援してくれている人がいること。

ありがたさを感じすぎて、ちょっと逆に、身が引き締まってくるような思いだ。

このまま行こう。みっともなくても一見めちゃくちゃでも、もっともっと、自分に向かって生きようね、と思う。

「私なりの精一杯」を目一杯生きよう。

what's the use of myself?

手数出してなんぼだな。と思う今日この頃。

 

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頭全然良くないのに、つい考えすぎてしまう。時々考えて考えた末に、「考えないようにすることを、考えてやる」なんていう本末転倒なことをしてる時もある。やれやれでございます。

 

考えるのが好きなんだと思う。これからも考えていくと思う。

でも、手数を出しながら、手を動かしながら体を動かしながら考えようと最近は思う。

それもこれも、仙骨を痛めて体が全く動かない時期を経たことが大きい。

 

ほんとに動かないというのは実際、かつて体験したことないほどの辛さがあった。動かない体で、エネルギーの発散場所をなくしたわたしの思考は今まで以上のフルスロットル。もう考えたくないよ、やだよー!って何回も思った。

 

でもそんな中でも、「文章だけは書ける」ということが救いだった。いったい入院中に何万文字?書いたんだろうと思う。(下書き10個につき、公開するのは1記事ぐらいのものだった。)書いて書いて、自分の中にあるものを出して、それでなんとかバランスを完全にロストすることは避けられたというか。

 

 

今もまだ思うようには歩けないけど、毎日ギターを弾いている。歌を歌っている、作っている。文章を書いている。治癒をしつつ、自分の創作に集中する時間を好きなだけ持てていることは本当に幸せなことだと思う。怪我の痛みを抑えてでも働くとか、そういう選択肢もある中で、私は今の時点ではそれを選ばないで済んでいる。

 

 

 

 

先日友人が、「自分の役割とか生きる上での使命みたいなものだけは、自分自身で見つけるしかない」と話していて、本当にその通りだなと思った。人から影響をうけることも、流されることもある。だけど自分の生きる道筋を選ぶことは自分にしかできない。

 

自分の使命のようなものなんて、まだ全然わからないけれど、なんとなくこれなのかな、みたいなものは最近感じる。それは、自分が作って、いいと思ったもののシェア、人と共有することなのかなと思う。

 これからも心のままに歌を作ることだと思う。心のままに文章を書くことだと思う。たとえそれが誰に届かなくても。今のこの密な時間が育ててくれている「私」を信頼することだと思う。そして、そんな自分が最高に「いいな」と信じられるようなものが生まれたときには、ラムピリカのように、人にそれを開放していくことだと思う。

 

入院期間中にも思ったけど、私は人が好きだ。それでいて、ひとりで黙々となにかすることも好きだ。(自分の境界を守れない時の最近の私のイライラっぷりはすごいと思う。関係者各位、時々ごめんなさい。)

 

自分のペースや境界を大事にしながら、相手も相手のペースや境界を大事にしながら、互いにすきなことをしながら安心して場を共有しているのが好きなんだと思う。お互いの気が向くところが交差するときには一緒になにか遊んだり、ご飯を食べたり、話したり。

 

 

全快したら、さて何しようかね。

 

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4月の中旬からマウイ島に旅立つ。

マウイ島が気になりだしたのは1年以上前のことで、猛然と行かなくてはと思い始めたのは入院期間中。

具体的な目的なんてものはないけれど、真っさらに美しい海にはいりたいことと、あとは多分、新しい拠点を探しているんだと思う。

 

東京やバンコクなどの大都会で暮らした時間が長かったからか、江ノ島に初めて越して来た時はなんて自然が多いんだろうと思って感激した。暮らすのに素晴らしい場所だと思った。

 

だけど去年、佐渡島の、「本当に手付かずの自然」に触れた時から、江ノ島界隈が段々テーマパークみたいに見えてきた。人が多すぎる。音が多すぎる。光が多すぎる。

そんな江の島もいまでもとても好きだけど、ただ、もっともっと「無垢な土地」に居場所をひとつ作りたい。抽象的だけど、近々の願いはそんなところかもしれない。

 

暖かい場所が好きだ。だから冬が厳しい佐渡島には住めないけれど、南国マウイ島なら…?

あまり大きなことは言えないけれど、今は漠然としたこの「とにかく行って見てみたい。感じてみたい。」だけを頼りに動いてみようとおもう。

 

ラムピリカのような場所を作れたらいいなあって思う。とてもシンプルに思う。

贅沢言うなら、もっと広くて、もっと風通しがよくて天井は高く、光の加減が心地よく。それでいて集まった人たちが各々の過ごし方を大切にできるスモールスペース、ソファとかハンモックなんかが気持ちよい距離感で点在しているような。そんな場所。石造りの白い壁の周りには色とりどりの絵の具があって、みんなが好きに絵を描いていい。(私は美しい花や鳥や森や海や空の絵を描きたいな…!)

華やかな香りの濃ゆい珈琲を淹れて、その香りが美しい空間に立ち込めている。南国の果物が何種類も庭に自生していて、お腹がすいたら誰でも好きにたべてよくて。

いつでも誰でも、好きなときに一緒に料理したりできるような開放的で大きなキッチンがあるといいな。

楽器ももちろんたくさんあって、誰かが時々ギターを静かに鳴らして歌を歌う。そこに集まって別の楽器を手に取るひとがいたり、ただ聴いているひとがいたり。

泳ぎたくなったら、マウイの美しい海にいつでもいける。

 

想像し始めたらどんどん湧いてきた、やばい!笑

 

でもここで一番重要なのは、この居場所に友人や家族や恋人や、大好きな人たちが好きなときに訪れて、好きなだけ過ごしていってくれたらいいなってこと。 

 

何か大きなことや、立派なことがしたいわけでも、すごいことをしたいわけでもないんだなと、最近つくづく思う。

今も生きていたいと思えるのは多分、好きな人たちが世界にいてくれるおかげで。自分の創作も大事だけど、好きな人とご飯を食べると美味しいとか、好きな人と笑うと嬉しいとか、好きな人と手を繋げると幸せだとか、そんな瞬間があるからなんだと思う。

 

 

"What's the use of myself?"

 

考えながらも。

つくろう。手を動かそう。体を使おう。

新しい、愛のある場所へと続きますように。

「大丈夫、だってどうせ愛してる」

心の話を軽やかに真剣にできる友達と過ごす時間は楽しくて一瞬ですぎる。今こんなこと感じてるんだとか、聞いてよ最近こんなことあってさとか。

ああでもないこうでもない言いながら、ひとと「考えで遊ぶ」ことがすきだ。

相変わらず人には会っていないけど、メッセージのやり取りでは裸ん坊になって友人たちとよく遊んでいる。

 

そんな中で、1週間くらい前かな、聞いた話が面白かった。

「人は、思考した時に感じた感情と同じ波長のものを繰り返し引き寄せるんだって。毎回惰性でやってる思考の癖が今までの現実&今目の前の現実を作ってるってこと。
だから、自分の「思考癖」を探すと、なぜ自分の人生が今の状態なのか、理由みたいなものが、なんとなく見えてくるんだって。」

 

「『思考癖』は、幼少期から信じてきた考え方とか環境とかの影響を受けて作られるから、もしいま生きづらいとか、どうしたらいいのかわからないとか、現状を変えたいとか望んでいるのなら、自分の『思考癖』ーー無意識のうちに自分が信じてきたこと、いつの間にかよく考えることのパターンみたいなものを見つけて、(大事なのはここ!)新たな考え方を植え付けていくと、必ず新しい未来が待ってる。」

 

なるほどー、わかりやすい話だなと思った。

思考が現実をつくるとはよく聞く話だけど、「思考癖」っていうのは初めて聞く、とてもわかりやすいキーワードだった。私は自分自身にすごく興味があるので、自分の思考癖ははたしてなんだろ?と考えてみた。

 

いいなと思う思考癖は、

「お金はなんとかなる」

だと思った。

 

お金は多分なんとかなるから、お金の心配よりも自分のやりたいことやることが最優先。どんなにお金がないときでも、いま欲しいものや食べたいもの、お金を使いたいところに使うことに集中しとこう。

 で、お金がなくなったら、なくなったときに考えよう。

お金がない!どうしても必要だ!となったら、そのときにはお金を作り出す方法はきっとアイデアを絞り出しまくれば千通りくらいあるよね!と考えてる。

 

そしてこの思考癖「お金はなんとかなる」が功を奏しているのか否か、全然お金持ちではないけれど、本当にお金はいつもなんとかなっている。

 

ここ最近もじつは、嵩んだ入院費のためかどうだか、気づいたら、今月の家賃払えないかも!やばいな!となってた。でもなぜか漠然と、まあ大丈夫かなと思ったまま数日を過ごしていた。

「お金はなんとかなる。家賃も多分大丈夫。それよりも私の中で大切なのはいま猛烈にマウイ島に行きたいってこと。」

そんなことを考えて気楽に構えていた。

 

そうしたら。数日前、退院祝いにと、20万円を下さる神様のような方が現れた…!

 

ほええええーーーーーーーーっっ!!!!

✨👀✨👀✨👀✨

 ま じ で す か ーーーーーーーっっ!!!!

 

となった。マウイ島、行けちゃう…!家賃も払えちゃう…!!!

 

超絶ありがとうございます…!!!✨

 

拝み倒す勢いでお礼を伝えた。

  

こんなことがちょくちょくこれまでも起きてきたので、お金のことに関して私は調子に乗ってしまってるかもしれない。根拠の全然ない、変な自信が出来上がってしまってるかもしれない。そのうち痛い目見るのかもしれない(…と書いた後で、この予防線的「思考癖」は打ち消す!と決意。)

 

その上、近年は、某いばやとかいう人たちの

「ゼロになってからの楽しみ方」

「ゼロになってからがスタートでしょう!」

などという最高に楽しくてクレイジーで愉快痛快アドベンチャーなるものを目の当たりにしすぎたので、お金に関してはもういよいよ、心配の余地がなくなってきてしまった。こまった。大丈夫なのかな。

 

……大丈夫!!!!

 

 

 

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さて、思考癖の話を引き続き。

 

お次は、嫌だなって思う自分の思考癖。

探ってみたら、これだって気づいた。

 

「どうせ愛されない」

 

 

わーお…。

 

なんて、威力のある言葉だろう。自分に向かって重めの一発、バズーカ砲打ち込んでるとでもいいましょうか。

 

なんでこんな卑屈な感じの思考癖を抱えちゃってるんでしょう。謎です。 

…いや、謎じゃないです。理由はなんとなくわかってる。多分、幼少期のあれこれとか、トラウマがうんぬんとか。自信がどうのこうのとか。

でも野暮なので詳しく書かぬ。

 

付随している感情は、「惨めさ」「悲しさ」「やるせなさ」「怒り」などでしょうか。

 

 

 

でもほんと、何をするにもひょこひょこと顔を出すこの思考の癖は、私の見る世界を時々酷く歪めてる。

 

大好きって伝えたい人たちになかなか素直に大好きって伝えられない。

大好きな人たちから優しさや親切を受けた時に、素直に受け取れなかったり。

人の咳払い一つで、「ふ、不快にさせちゃった?!!!!」いらぬ心配してみたり。

 

落ち着けば、大体世界はクリアに見えるようになるし、自分のことをすんなり信頼したり、素直な衝動に従える時ももちろんたくさんある。

だけど、なにか反射的に不安や恐れを感じて、本音とは違うところで言動している時のわたしの頭のなかは、「どうせ愛されない」が占拠してることが多い気がする。

 

これはなかなかに厄介。

身近なひとたちとの関係を歪めてしまう。

孤独とは違う、望んでもいないような「孤立」を選んでみたりすることもある。

 

 

そこでこの思考癖を書き換えることにした。

 

 「どうせ愛されない」

から、こっち。

 

「どうせ愛してる」

 

…この言葉、すごくないですか?

 

この言葉を思いついて、なんとはなしに口に出して言ってみたときの威力がものすごくて、びっくりしてしまった。大発見だ!とすら思った。

 

 「どうせ愛してる」

 

なにかあるたび、もしくはなにもなくても、

 

「全部だいじょーぶ!だってどうせ愛してるから」

 

根拠なんて無くていい。ただ、「この言葉を使うこと」の威力を感じてる。この無謀で無防備な感じが最高にいい。

 

「どうせ愛してる」にくっつけられる言葉があるのだとしたら、

「自分を、人を、世界を、神を、宇宙を…」

なんでもいい。なにもくっつけなくてもいい。

 

愛してるかどうかの真偽を確かめることなんてどうでもいい。そこは全然重要じゃなくて、

 

「どうせ愛してる」

 

この言葉を自ら放つ、自分に向かって唱えてあげる。

 それだけで、随分いとも簡単に、不思議な肯定感や安心感に包まれてしまうものだな!とただただ感嘆した。

言葉のもつ力は、こういう風に利用するのがきっと大正解。

  

人間が健やかに軽やかに前向きに生きていくにはある種のふてぶてしさのようなものが必要な気がする。自分の脚で自分の人生を歩く、って、こういうことなんじゃないかなって思う。

 

 

不安を感じる時、寂しさを覚える時、世界に一人きりのような恐怖に襲われる時。

「大丈夫、だってどうせ愛してる」って言いまくろう。

「お金はなんとかなる」って、根拠もなく言えるように。

 

望んでもいないような現実に打ちひしがれることが多いのなら、そうなってしまう人はどこかで、自分への信頼感や自分に幸せを許すことを選べなくて苦しんでいる人なのかもしれない。「自分を信頼しない、できない」「幸せになれない」という思考癖を無意識的に繰り返しているのかもしれない。

どこかでそういう人生を、無自覚的に自分自身の手で作り上げてるのかもしれない。

少なくとも私が、負のループに捕まってしまうときはそういう状態の時だと思う。

 

 打破するのに一番必要なのは、多分軽やかに、そう最高に軽やかに!いともあっさり、


「全部おっけー!!!」

「だってどーせ愛してるから!!」

 

って自分で自分に言ってあげる勇気。

 

言うだけ自由なんだ。言った後のことは言った後で感じよう。

 

 

ひとから嫌なこと言われて傷ついても

「大丈夫、だってどうせ愛してる」 

 

誰かと喧嘩して自己嫌悪に陥っても

「大丈夫、だってどうせ愛してる」

 

友達いない!

「大丈夫、だってどうせ愛してる」

 

トラブル発生!死ぬ!

「大丈夫、だってどうせ愛してる」

 

 

根拠もなく言い放て。言葉の威力にやられてしまえ。

きっとすべてが時間を経て好転を迎える。

 

世界に正解なんてものはない。

自分の存在の全部に。選択の全部に。

死ぬほど安心してYESをだせ。

 

大丈夫、だって

「どうせ愛してる」から!

「大好きな人が世界にいること」がホームになる

あらゆる衝動に抗うことに集中している。

ここに書いた衝動というのは、「喫茶店開きたい」「イベント開催したい」「友達のお誘いに乗りたい」「展覧会に行きたい」などなど、主に身体を使ってすることに対する衝動。

 

退院して10日くらい。仙骨の調子は悪くない。

でもどうやら「まだ」みたい。完治はもう少し先。

 

1日に1、2回は1キロくらいの散歩をするのだけど、1ヶ月の歩行不可生活ですっかり筋肉がなくなってしまったんだろう、今まで筋肉痛になったことのないような箇所に筋肉痛が起きている。太ももの側面とか、裏側とか、腰から臀部にかけたあたりとか。すごく面白い。今筋肉痛になってるのはわかりやすく「歩くための筋肉」なんだと思う。

 

今は痛み止めの一切を飲んでいないのもあって、等身大の痛みを感じる。

仙腸関節を中心にピリピリとした痛みが走る。

調子がよくない時には、左脚の付け根から足裏にかけてまで、見事に動かない。

 こういうのがなくなるまでは、無理しないことだなと思う。

身体の声を聴こう聴こうと意識しているのだけど、具体的にどうやって?と問われると、私もよくわからなかったので笑、メモアプリに都度都度書くようにしている。

「身体、今どうしたい?」

問うと、

「寝てたい」

とかすぐ出てくる。笑

 

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去年の今頃のお写真。

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いい文章を読むと、ああ、いい文章を書きたいなと思う。

美しい絵をみると、美しい絵を描きたいなと思う。

可愛い人を見ると、かわいくなりたいなと思う。

いい音楽を聴くと、いい音楽を奏でたいと願う。

至極自然な感情だと思う。

 

最近はそういう意味でのやりたいことが多くて、1日は充実している。

文章を読む。文章を書く。

好きな画集や写真集やアート雑誌を風呂で時間かけて眺める。

イデアが湧いて、ブラックボードに書き出す。

好きなアーティストの写真を見る。

身にまとう春物の服や次にしたいヘアスタイルを考える。

ギターで好きな歌を弾く。

ギターコードを気にせずギターを鳴らす。

 

 

 

最近SNSを大幅にやめてみた。

FacebookTwitterInstagramのアプリはiPhoneから消した。

書いたブログをFacebookにシェアしたりもするけど、Facebook自体はほとんど見に行っていない。

あとは、ちょっと情報量が多いなと感じたLINEのグループからは思い切って脱退。

 

これらのことが今、素晴らしい影響を私に与えてくれている。自分のことにとても集中しやすくて、先に書いたようなやりたいことを次から次へとやれている。人とのコミュニケーションは若干減ったものの、不思議と、以前は強烈に感じることもあった寂しさが、最近はほとんど感じられなくなった。

 

SNSの中には、嬉しさや楽しさや驚きがあったり、人とのつながりや安心感を感じられることもあったけど、今は、積極的にネット上のやりとりを確認しなくても「大好きな人が世界にいること」が自分のホームになっている。そんな感覚がある。うまく言えないのだけど、わたしはひとりじゃない。ひとはひとりじゃない。そんな実感が日に日に強くなる。

 

人に会いたいなとか、あの人どうしてるかなとか、たまに思い出す人もいるけれど、その人のSNSを見に行っても、やっぱり本人に会わなきゃわからないことってたくさんあるよねと思う。本当は悲しいときにも、楽しいと書けるのが人間だったりもする。

だから、このお籠り期間を経て身体の自由がもっと効くようになったら、もっともっと人に、生身のその人に会いに行きたいと思っている。

 

 

春休みのみずきと鈴が一日中同じ屋内にいて(みずきは数日前からおばあちゃんと一緒に行動しているけど)学校に行くとか行かないとか、時間割がどうのとか宿題のこととか、何も気にせずに死ぬほど好きなことを黙々とし続けているのもすごくいいなと感じている。

 

主に彼女たちは、好きなタイミングで好きなものを食べ、好きなアニメをYouTubeで好きなだけ観て、開店予定の立たない喫茶店の中に難民キャンプをこさえたり(中はソファやテーブルやランプがあったりと、超快適空間だった)、好きなタイミングで友達と遊ぶ。工作をしたい時にはしているし、毎日訪問してくる野良猫にはせっせとご飯を与えている。(近所のコンビニが閉店セールでキャットフードを半額で販売していたので、鈴はお年玉で棚にあった全部を買い占めていた笑)

 

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難民キャンプ@ラムピリカ

 

みんな自分の好きなことを、好きなようにやっていて、おかげで私も自分のことに以前より集中しやすい。気が向いたら時々一緒に映画を見たり、ご飯を食べたり。なんだかすごく平和だ。

 

 

ーーー

 

「とどのつまり自分のことしか書いていなくていいな」と思う文章が好きだ。

誇張も誇示もされずに、等身大のその人が、ためらったりしながらもそのまま書き表されているような文章。

どこかで聞いたような台詞とかじゃなくて、世の真実はこうだとかそういう話じゃなくて。その人が感じたことがそのまま書いてある文章を読んでいると、人の温度を感じて嬉しくなる。

 

 

記事のタイトルを「大好きな人が世界にいることがホームになる」と書いたけど、「ホーム」というのは、「拠り所」とも書き換えられる気がしていて、私は以前は、もっとわかりやすいものをホームにしたがっていた。

「家」とか「法的な家族」とか「経済的な安定」とか。

 

今でも、そういうものを拠り所にしたがってる時はあるし、逆にそれらで大いに遊べている時もある。でも、それらを「手に入れて、維持すること、守ること」に意識が行き始めた途端に、毎度次第に感じ始めるのは肩にグッと硬い力が入っていくような息苦しい感覚と、心が枯れていくような感覚。

「家」とか「法的な家族」とか「経済的な安定」を守るために、そこに関わる人たち、純粋な「大好き」だけで愛せていた人たちを、いつの間にか、力を込めた手のひらで握りしめることで「愛している」と錯覚するような、重苦しい感覚。

そんなことをしてしまっては、その人がその人らしく、生き生きと輝いて生きることの妨げになってしまうし、何より私自身が一番苦しい。

恐れは愛を殺してしまう。

 

ほんとうの優しさって、愛って、なんだろう。

いつだって考えちゃう。いつだって考えちゃってきた。

 

未だにわからないけど、ただ体感覚をいつも研ぎ澄ませておきたいということだけは、確かにある。自分の中にある。

その愛し方で、重苦しいなら、きっと愛から少し外れたところにいるよ。

その愛し方で、清々しいなら、身が軽いなら、暖かいなら、きっと愛の真ん中にいるよ。

 

大好きな人たちがただ、世界にいてくれるということ。

このことがホームになる。

 

私は自分の身体を治しながら、安心して今日もここで遊んでる。