On the way always

日々の記録と、思うこと徒然。自分のために綴ってます。

どんな小さな音も響く

「本当の自分」なんてものは永遠に分からないんだろうなと思う。

 

「自分を信じる」ということが貫けないとき、そんなときにだけ、「ほんとうのこと」が嘘にすり替わってしまうことがある。逆に自分を信じきっているときには、世界の動き方が一変する。どんないい加減な言動であっても信憑性がめきめきと増して、結果的に「ほんとう」になっていたりする。要するに、自分が思い描いたストーリーをいつも生きているのだと思う。

 

自分が何に喜ぶのか、何に深い幸せを感じるのかはできればたくさん覚えておきたいなと思う。見知ったような幸せを再現したいわけじゃないけれど、そして偶然性から生まれる喜びや幸せにかなうものはもしかしたらないのかもしれないけど、「素晴らしい偶然」を引き起こせそうな予感を孕んだ波に乗るのか、それとも白波も立たない、安全そうだけど何だか退屈そうな波にしておくのか。どんな波に乗るのかくらいは、いつでも自分で選べる。

自分はどんな波が好きなのか、知るためには、はじめはどんな波が来てもまずは片端から乗ってみることなんだと思う。 そのうちに身体が覚えていく。

「これたぶん、好きなやつ。」

「次に来てるのたぶん、イヤなやつ。」

 

 

 

停滞するのも悪くない。自分から出てくるものをただ感じているだけの時間。だけどエネルギーはいつだって自分の中を巡って蓄電されていくものだから、散々停滞した後には必ず躍動が待ってる。その時が訪れるまでは安心して停滞しておいたらいい。

 

 

 

ここ最近の私は、躍動か停滞かで言ったらまさに「躍動」、長い長い停滞の時期をやっと越えたのかなという感がある。

ほぼ毎日、ロードバイクで海沿いの道を走り、スタジオをセルフレンタルして一人で好きに身体を動かして自由に踊る。ヨガも再開した。9年も続けていたのにこの1年はすっかりさぼった。鎌倉でアシュタンガの、とても好きなヨギーを見つけて、その人に教わり直すところから始めてる。

どれをするときもTシャツが汗で絞れそうなほどに動く。最近の海と、雨のない6月の陽気の中で過ごしていたらサーフィンも再開したくなった。夏用のウェットスーツを昨日買った。

 

 

喫茶店、ここ10日ほどの間は、約2日に一度の頻度で開店している。

最初の頃は、友人やお客さんの誰かしらが背中を押してくれた。そして「最近は、直前告知で開店すると何かしら面白いことが起こるな」という新しい味を覚えて、開店率上昇に勢いがついた。

ほんとうに不思議だ。つい先日までは、喫茶店はもう閉店するか人に譲るかしか選択肢がないように思えていたのに。

最後のお客さんが帰った後は大体、本とギタレレを持って一人で海に行く。お客さんと一緒に行くこともある。

陽が沈むまでの時間を海辺で過ごす。海の水はこの季節、すでにすっかり温くて、足を浸すのにちょうどいい。

 

身体を動かすと心も巡る。不思議と友達も巡る。気のせいかお金も回り始めた。

 

環境の方は私の躍動期を待たずに少し前から勝手に巡り始めていて、具体的には喫茶店施設のあらゆるものが勝手にリニューアルされていっている。今は屋根の総張り替えという大工事中。来月はNYに住む妹が帰国するので、その時に合わせて、NYの私の好きなお店で喫茶店の新しい食器をたくさん買ってきてもらう。きっと古い食器をたくさん処分するので、ガレージセールがまた喫茶店の前で繰り広げられることになりそうだ。

 

 

親愛なる詐欺師、カヤノさんに、最近喫茶店のプロデューサー的な何かに就任してもらった。表向き?の肩書きは「社外無責任役」(笑)

これまでの喫茶店の企画で、わたしのツボにヒットするものは、原案が大体カヤノさん発信だということに最近気がついて、改めてお願いしてみたら快諾していただいた。

 

カヤノさん発案による次なるトライは、「仮想通貨」(Bitcoin

喫茶店でドネーション制を導入してから早くも半年以上が経つのだけど、これは私の中で軽く命を賭けた(喫茶店の存続を左右するのでw)遊びだった。で、散々遊んでみたら、この遊びは準備が楽チンな上にすごく面白いことがわかったので、今度はドネーションに仮想通貨(このワードの響き…ワクワクする!)を加えて新しく遊んでみようと思ってる。今度は何が起きるかな。

 

「お金を稼ぐために働く」ことに対しては依然として心踊らないし身体もてんで動いてくれないけれど、「お金で遊ぶ」とか、「遊びながら働く」ためなら俄然動けるんだな自分。。。ということを改めて目の当たりにしていて、ああ、この社会で今日も自分が生きているのは奇跡だな…ありがとうございます世界……と思ったりする。

面白い遊びや実験や、とにかく「素敵!」なことをこれからも増やしていきたいと思う。これからも、そんな喫茶店のあり方を面白がったり、愉しんだり、応援したいと思ってくれる人たちが集ってくれたらいいな。一緒に遊んでくれる人が増えたらいいな。

もし人が集わなくなったら、その時はきっと、私が楽しめていない時か、センスが尽きて「御役御免」という時なんだと思う。潔く、隠居するなど考えるとしよう。笑

 

 

 

ここまで書いたものを今読み返してみて、なんか、アクティブな人って感じがするな…と思ったので補足すると、四六時中動いているわけでは全然なく、夜は子どもたちよりも早い時間に布団に入って夢も見ずに深く眠るし、日中も隙あらば寝たり本を読んだりしている。時々不思議な感情がふうわと内側から湧いてきて、じっとして、なんだろと味わっている時も多い。

 

新しいものや躍動をわかりやすく求めているというよりは、動くことで自分の「好き」を再確認しているような時間だなとも思う。

空いた時間には、もうこれまで何度も何度も読み返してきた好きな本や漫画を、さらに読み返している。自分に何度でも刷り込んでいきたくなるような言葉。絵。

そんな中で、細野晴臣さんの世界観が私は本当に好きなんだなと改めて感じてる。彼の音楽もさることながら、著作「アンビエント・ドライヴァー」は何度読んでも、読み返すたびに新しい「未知」にであう感覚があってとても好い。そして不思議と、「未知」なのにどこか懐かしさも覚える。これは何だろうなあ、と思う。深い深いところからの安堵感が生まれる。

 

アンビエント・ドライヴァーから、とてもいいなと思うところをいくらか抜粋して今日の日記は終わりにします。

 

「考えてみれば、太古の時代には自分一人で演奏し、聴くような音楽があった。現在でも、少数民族にはぼそぼそと歌う人たちが多い。また、フィリピンのイゴロット族の鼻笛は、文字どおり鼻で吹く笛なのだが、非常に小さな音しか出ない。どうやら自分が聴こえればいいということらしい。彼らは、自分を通して世界とつながっていることを実感しているのだ。そして、どんなにひそやかな音でも世界に響いてしまうことを知っているのだ。だから彼らには、ひそやかな自分だけの音楽という意識もなければ、孤独感もない。」

 

「脚を骨折したことがある。身動きがとれないほど仕事が忙しく、煮詰まっていた頃、大雪の日に足を滑らせて転んでしまったのだ。おかげで契約はすべて白紙に戻り、半年ゆっくり過ごすことができた。無意識のうちに何かが整うと、よかれあしかれ何かが起こる法則があるようだ。その準備が整った状態を「受けができる」というらしい。常に受けの状態でいることは難しい。一通りの経験をしていないと余裕がないから、何かが起こると慌ててしまう。痛い目に遭わないと、受けは定まらないものらしいのだ。もっとも、僕は元来怠け者でものぐさときている。だから、寝て待つのは一番性に合う。いつの間にか「果報は寝て待て」が身についてしまったのかもしれない。」

(2月に仙骨を痛めて歩けなくなった時、「ああ今の自分に必要なことが起こったんだなきっと」と割と冷静に思えたのは、晴臣さんの影響だったのかもしれないないなと、読み返していて思った。)

 

「かつて、僕は友人からもらった不思議な石を宝物にしていた時期がある。それを失くしてしまった時には、ひどくショックを受けた。だが、その時初めてモノにこだわらなくていいことに気づいた。モノというのは、何かを教えてくれるに過ぎないのだから。その他にも、僕は大切なレコードのコレクションや楽器を失くしている。モノを失くすと、モノとモノの間が見えてくる。知るというのは、結局そういうことなのではないか。」

 

 

無理なく自分に入ってくる、力の抜けたような言葉。

でも多分、うまく言えないけれど、もうずっとずっと昔から、もしかしたら生まれる前から自分の中に在ったことを、晴臣さんが言葉にして話してくれているだけのような気もする。

 

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フローの中に居て尚、軸に在る

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今朝、午前9時半頃。
布団の中、まだ微睡んだ視界の隅でiPhoneがメッセージの着信を鳴らす。
美味しいものたくさん持って今から行くねと友人から。

約2時間後。ラムピリカの引き戸ががらりと開く。

シャンパン、大量のバゲット、ゴルゴンゾーラ、ぱりぱりに元気なバジルの束、チャパティのハンバーグサンド、チョコレートドーナツ、クラッカー、卵、ミニトマト、瓶ビール、缶チューハイ、りんごジュース、そして花束。

山ほど携えて友人が到着する。まさかこんなにもたくさんのご馳走を持ってきてくれるとは思っていなかったものだから、朝ごはんに納豆でもと考えていた私はびっくりしてしまった。友人がグラスに注いでくれた冷たいシャンパンを一口、ごくりと飲むと、寝起きの頭のスイッチは一気に「ON!」に入ってしまった。

『これは今日、ラムピリカ開店というか、「開放」したほうがいいのでは…!』

私たちだけでこのご馳走を独占しないで、訪れる人たちみんなで食べるのがいいんじゃないかな!!

提案すると、その場にいた友人二人ともがいいね!と言ってくれた。

よっしゃ!(≧∀≦)
っとFacebookを開いて即告知文を出す。

『はっ!ときた方どうぞお集まりください。』

 

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最近、こういう告知の出し方がクセになってきた。

イベント開始直前、もしくは、開始後にお知らせを出す。
お知らせを見過ごす人もいれば、しっかりキャッチする人もいるだろうと思う。
偶然という名の必然に「乗った!」となった人たちが、瞬発力よく足を運んでくれる。
たまらなくワクワクする。


三人でご馳走に舌鼓を打ちながら、お喋りしながら、「誰かくるかな?くるかね??」ワクワクしながら過ごしていた。

たとえ誰も来なくても、もうすでにご馳走があって、友達がいて、心地よい音楽が流れていて。既にゴールしてる私たちに怖いものはない。誰か来たら、その時点で「儲けものすぎる儲けもの」
嬉しいサプライズになる。


最終的には短い時間で四人の方が訪れてくれた。誰かが新たにラムピリカの引き戸を開けるたび、きゃいきゃい言って喜んだ。
初めましての人もいれば、いつもお世話になってます!の方も、お久しぶりですね!の方も。

思い思いに話をしたり、読書や昼寝をするひともいれば、整体をしてくれたり、店の隅で工作を教えてる人なんかもいた。

楽しい時間は一瞬で過ぎる。
あっという間に今日の開放の終了予定時刻をまわり、夕日を見に行こうとその場にいたメンバーで海まで散歩。

友人のひとりは、江ノ島の海に洋服のまま入って泳いでいた。

もうなんか変な大人ばっか笑笑
いいなあ!最高だなと思った。

海で解散後はラムピリカに何人かで戻って夕食のような、軽く食事をして、眠りたいタイミングで眠りにつく。

全てが自然な流れの中にあると感じられるとき。各々が好きなように振る舞い、話したいことを話し、やりたいことをやって、与えたいものを与えたり、受け取ったり。誰もが何をも無理をしていない時空間の中では、ただただ静かな安心感と至福感が人々を包む。
フローの中に居て尚、軸に在る。
そういう一日だった。



私の今日という1日に、関わってくれた全ての人たちに、ありがとう。
おやすみなさい。


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透明な気持ち

今週はずっと、子どもたちと離れて一人で千葉県船橋市の実家で過ごしていた。

理由は、「一人になりたいから」

 

先週末に母に頼んで、今週はずっと江ノ島で子どもたちと過ごしてもらうことにして、週初めに私は一人で千葉県に向かった。

私の不在中に子どもたちがどんな風に過ごしていたかは知らない。

昔のように、一人になりたい理由をあれこれ細かく母が聞いてくることが今はないことがありがたい。

 

 

船橋滞在中は一人でヨガをしたり、ただ眠ったり、漫画を読んだり、ギターを弾いたり。永遠に一人で遊んでられそうだなと思った。

時々友人とメールのやりとりがあったりしたからなのか、よくわからないけれど、面白いくらいに寂しさはなく、気楽で気ままで、深く心身休まった。

 

今日江ノ島に帰ってきて感じたことは、

「しばらく離れてみて、久しぶりに帰ってくると、喫茶店に対しても子どもたちに対しても、愛おしさが増すな」

ってこと。

 

あとは、

「たとえ実の親子であろうとも(親子だから余計に?)人間誰でも、距離が近すぎると息が詰まっちゃいやすいんだな。」

ってこと。

 

ここのところ、娘たちとの衝突が続いていて、私にはそれが結構なストレスだった。

うまく向き合える時もあるのだけど、何せ相手は思春期只中。一筋縄には行かない。

余裕がないときには、自暴自棄な対応をしてしまうことがあって、そんな時の私を、私はすごく嫌いだ。

 

現状を打破する、とか、問題と向き合って解決する、も、できるときにはするけど、嫌だなと思ったらするっと軽快に逃げる。嫌な自分から逃げる。嫌な現状から逃げる。

 

親なのにありえない、とか、一部の人からは言われそうだけど、いや全然ありえなくないって思う。

向き合いたい時は向き合うけど、だけど、辛いのを無理してまで絶対にやり通さなきゃいけないことなんて、本当はない。時間が、距離が、解決してくれることというのはどうしようもなく、あると思うし。

 

娘たちも私の真似をして、どうにもならないなと思った時は逃げていいと思ってる。自分を、自分の判断で守れと思う。我が家は家出も逃亡も大推奨だ。(ただし危険な場所には行かないでほしいと願ってるから、それだけは日頃から伝えようと心がけてる。)

 

 

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今日の夕方、江ノ島への帰り道、車の中で友人との会話を思い出していた。

「金曜日は満月だよ。千秋さん、海Cafe、開かない?」

開きたいなと思いながらも。でも決めかねていた。

もう少し一人でぼけっとしていたい気持ちもあったから。

でも。海辺で満月を見ながら、珈琲飲んだら最高だろうな。そこに友達もいてくれたら、もう本当に最高以上の何物でもないな。

そう思い立って、友達に連絡したのが18時半。「2時間後に開くよ」

Facebookに告知を出したのが19時半過ぎ。

20時に友人を藤沢駅でピックアップして、20時半過ぎ、江ノ島海岸に到着。

テーブルと椅子を波打ち際にセットして、海Cafeオープン。

このスピード感は最高に爽快。

私と友人のために珈琲を淹れ、波打ち際の特等席には持参した月のライトを置いて、本物の満月が雲の隙間から現れるのを待つ。

珈琲を飲みながら、「最高だね。もう、ゴールしたね。」と笑い合う。

 

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寄せては返す波に足を浸しながらギタレレをぽろぽろと弾いていると、マウイのハナのビーチで延々とこの人を弾いていた時間を思い出して、少し懐かしく、ふと笑みが湧いていた。

 

時々、厚みの薄い雲が月の下を通る。その時には満月の輪郭がぼやけて見える。

「今日の満月は、いて座の満月。感謝したいことに感謝して、手放すのにいい日らしいよ。」

友人が話す。

 

私は、愛おしい人の顔を思い出した。

ありがとう。さよなら。本当にありがとう。

透明な気持ちが溢れ出した。これまで散々出てきた悲しみや怒りのような感情は、もうすっかり出し尽くしてしまったのか、もう私から溢れて出ることはなかった。

 

「千秋さんの毒をみんな出してくれるために、千秋さんの前に彼は現れたのかもね。」

友人が話す。彼女が言うには、1年前くらいに初めて出会った時の私は、今よりもずっと壁があって、近づき難い雰囲気が漂っていたらしい。

今は、「人間だな。よかった。」そう思うのだという。

 

「本当だね。1年前、私は人に対して、思ってる以上に壁があったよ。心開いているつもりだったけど、全然だったんだなって。今振り返ると思うよ。もう悔しいけど、今の私がいるのは彼のおかげかもね。笑」

 

そう話したら、

 

「今の方が、自分のこと好きでしょ?」

 

と彼女。

 

私は笑ってしまった。なんか全部お見通しだな。

私は私が大好きで、でも結局はずっとずっと、大嫌いだった。

 

今は、大好きで、時々嫌いで、でもやっぱり大好きだ。

 

 

22時になるかならないかの時刻。急に、お客さんラッシュ。

二人で海Cafe できただけでもうゴール!だったのに、これはとんでもなく嬉しいサプライズだった。次から次へ訪れる人たちに、よく来てくださいました!と大喜びで珈琲を淹れた。

 

私たち以外に5人の人たちが、海Cafeを訪れた。

順番に珈琲を飲み、特等席に腰掛け、雲が晴れた空に満月を見つけて喜び、お話をして、好きなだけ滞在したら好きなタイミングで皆さんそれぞれのお家へ帰って行った。

 

 

いい時間だった。ありがとう。

 

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good day --- さよならの作法

「自分が信じた物語」との離別、なんだと思う。失恋について話しています。
最近私は『失恋』をしました。
多分、私ひとりきりでしました。


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二人が共にある未来の可能性を、今この瞬間の気持ちを語りあう時間をたくさん共にした相手と、いちど関係を解消しましょうという話をしたのは1ヵ月以上前の話。


相手は変わらず、きっと元気に生きたいように生きているんだろうなあと思う。(SNSもなにも見なくなったので、知らない。)


だけど私はこの1ヵ月、もう自分でも予想しなかった位のいろっんな感情が出に出まくって困った。大納得をして別れを選んだつもりだったのに、全然一筋縄にいかなくてなんじゃこりゃ!!と思った。溢れ出てくるいろんな感情を前に、自分とひたすらに向き合う時間を作るほかなかった。


その甲斐あってか否か、最近すこしずつ、自分の中で変化が生まれたのを感じてる。


相手や二人の関係性に対する感情にばかりフォーカスが行ってたのを、もっともっと強く自分だけにフォーカスがあたるように集中しているうちに、自分がほんとうは、一番に優先させたいこと。それがはっきりしてきた。一度は忘れてしまったけど、やっとちゃんと思い出せた、というか。それは、


「自分に自分でウルトラ優しくすること」
「好きな状態の自分を、自分で選ぶこと」


に外ならないってこと。
去年の今頃とか本当に、結構上手にできていたんだけどなあと思い出す。

 


過去にしがみついてもいいことはない。わかっているのに、だけど幸せな過去にしがみつきたくなるというのは多くの人にとって至極起こりがちなことのようなきがする。私はこの1ヵ月近く、そのただ中にいた。


でもそんな中でも時々、ふと冷静になっている自分がいて、そんなときには自分の「痛み」を眺める余裕が少しだけある。


一体、何がそんなに今の私を苦しめているのかなぁ。だって好きな人なら今でもいつでも会いに行ける状態にあるじゃん。連絡だって取れる。なのに、一体何がそんなに私は悲しいんだ??
なんなんだ、なんなんだ?

 


感じつづけてきた結果、ふたつ、気づいたことがある。


ひとつは、「自分の傷を見てやる」ってことが私には多分必要なんだなということ。(人生通算300回目位)


一緒にいた時間に自分が取りこぼしてきた感情や、自分の中の傷(新しい傷もうんと古い傷も含めて)を『よく見てやる』ってことがとても大切な作業のようで。


一度閉じてしまった心の扉を開いて、奥を見てやる。奥の方でグシュグシュしてた傷に風を当ててやる。


「ああ、辛かったのね。」
「そうか、悔しかったんだね」
「頭にくるよな、そりゃね」
「怖かったんだね、うんうん」


そう自分に言ってやるだけで。それだけで、ひとつ何かが癒しに向かう。ひとつ何かが身軽になる。からりとする。そんな体感覚を感じている。ほんとうにすがすがしく、またひとつ身軽になって前に進むために、私にとってとても大切な行程なんだろうと思う。

 

自分で自分に一番優しくする。その大切さを思い出せて、そして再び実践しはじめて、初めて、相手に対する愛おしさが蘇ってくる。
ほんっとーに意地悪で、人の気を引くのが上手くて、「Aだ」と私に直接言った次の瞬間ブログに「Bです」と書いてたりして何度ブチ切れたことかわからん。笑 めんどくさい人。毒もある。だけどどこまでもさり気なく優しくて、不意打ちすぎでしょってほどお茶目で、かっこいいときはわたし史上最高かってほどかっこよかった。ほんとうに、大好きだったなあ。でも今の気持ちとしては「もう二度と会いたくない」(笑)  振り回されるの大嫌い。私はやっぱり、私の方が好きだ。

 

 

ちょっと話が逸れちゃったけど、もう一つの気づいたこと。それはたぶん今一番言いたいことなんだけど、まさに冒頭に書いたことに尽きる。「自分が信じた物語」との離別が「失恋」なんだと。そんな風に思う。


ほかにも、失恋だったり、失職だったり、失業だったりの「失◯」という言葉のほとんどに「自分が信じた物語との離別」という表現がわりと当てはまるような気がしてる。全部ほんとうは一人でやること、なのかなと。


どれも、他人との関係あってこそ起こりうることだけれど、本当はどれも一人で始めた物語ーーー本当は形のないものに、形を与えようとすること。この手に「得たはず」だという幻想。そのストーリーが、半強制的ないし自然の摂理的に終わらせられるときがくる。だから辛い。痛みを感じるのかなと。


そもそも最初から何も「この手には得て」なくて。だからそもそも何も「失って」もいなくて。あえて失ったものといえば、「この状態がずっと続くはずだという幻想、自分がいちど信じた物語」だけなんだなと。


私はまだ生きていて、大好きな人たちは今も世界にいて、いつだって愛を伝えられる状態が、紛れもない、混じりけのない『今』で。


そう、わたしは最近やっと、
「『失恋』することを自分に許せた」
のかなと。そんな風に思う。

 

 

物語を作ることがよくないって言いたいわけじゃない。むしろ描きたい物語が偶発的にも生まれるってだけで、そんな出会いがあったってことだけで、すばらしいなと思う。痛みも苦しみも、喜びも快楽も。全部全部色をもっている。どんな物語であっても、1つでも多く生まれるってことは、それだけその人の人生全体を見たときの彩りが増すってこと。


長い人生の中の、一つの章を自らの手で終えること。名残惜しいね。でも次の章が待ってるよ。さて次はどうしようか。前の章で新しく手にした、たくさんの色の絵の具も使って、次はどんなストーリーを描きたい?

 

 

出会ったのなら、生まれたのなら。
丁寧にさよならをしよう。私の中の古い物語に。古い痛みに。過ぎていった愛おしい時間達に。より透明で鮮明になっていくストーリーを、これからも描きたいから。

 



と。

ここまでが、私が信じている、
「今の私の物語」


丁寧に、限りなく自分と親密になって言葉を選んだつもりだけど。


私は私と、もっともっと仲良くなれそうな気がしている。

むすんでひらいて、拡がって

「主権を自分の手にとりもどす」

 

なんていうと、少し堅苦しい感じがしてしまうけど、ついさきほどふと頭に浮かんだ言葉。

ついさきほど。最近お気に入りの電動歯ブラシで歯を磨きながら、日に日に歯が真っ白のつるっつるになっていくさまが実感されて喜んでいた時。

 

 

「主権」

ウィキで調べてみたところ、

 

  • 国民および領土を統治する国家の権力のこと
  • 他国の支配に服さない統治権力のこと。国家の構成要素のひとつで、最高・独立・絶対の権力[2]
  • 国家の政治のあり方を 最終的に決める権利のこと

 

 

などなど、政治的な意味合いの説明が出てきた。

 

私は政治に興味が持てない。興味があるのはいつも、目の前で起きていること。

なので国家から取り戻したいものなどは特になくて。

 

 

私の中の取り戻したい「主権」があるとしたら、「自分の人生の主権」とでもいうか。

 

自分の周りにいる、自分に対して影響力のある人や、家族などの近しい人たちについ委ねてしまいがちだった自分の主権を、自分の手に今一度しっかりと、取り戻したいのかなと。

wikiからここだけ抜粋ーーー「あり方を最終的に決める権利のこと」ーーー

これを、しっかり自分の手の中に取り戻したいのかなって。

だから冒頭に書いたような言葉がふと浮かび得たのかな、と。

いやもっと言うのなら、いつも主権は自分の手の中にある。思い通りになることもならないことも全部含めて、自分の在り方だけは自分がいつも選んでいるってこと。起きたことを、誰かの所為にしてみたりするようなことも含め自分で主権を行使してるってこと。そのことを再認識しましょう。ってことかな。な??

 

 

これまでの人生、誰も私を「支配しよう」と意識的に行動を起こしたりなんてことは、なかったと思う。

ただ、無意識的に「相手を支配しようとする」ことや、「相手に支配されることを選ぼうとする」ことは、私を含めて誰にでもある気がする。

 

この「無意識的に」が一番怖いな、、、と、最近つくづく思う。

世界のベクトルが自分に対してしっかりと向いていないと、いとも簡単に、人間関係の中でいつの間にか「支配」が生まれている。する側にもされる側にも、容易に陥ることができる。本当にそれは、後ろからひそりひそりと忍び寄ってきていつの間にか自分の肩に乗ってたりするもんだからびびる。支配支配と書いたけど、「依存」とも書き換えられるかな。

 

 

ここのところ私が集中していること、それは「自分」

 

ここ数ヶ月で失ったバランス感覚を取り戻したくて、自分の「好き」や「嫌い」に強烈に集中するようにしている。

 

ちょっと過剰なくらいかも?

でもそんな時期なんだな、ということで、全然深刻にはなってない。

(一つのことに集中し始めるととことん、気の済むまで、というのは多分私の性分なのかなと思う。) 

 

もっと言うのなら、身を開きまくって世界に出会いまくって、自分のバランスをすっかり失いまくるような時期、人に自分のあり方をすっかり委ねてしまうとか、そんな時期も全然あっていい。むしろそんな時期こそ全肯定したい。

 

自分のバランスを自分以外のものにすっかり預ける。

「これが自分」と思ってたもの、これまでのあり方がぶっ壊れてしまうってこと。

いっときそんな時期が人生に訪れるのは、大歓迎してしかるべきかなと思う。その状態を楽しめる時間だって必ずあるはずだし、一人で立っていられない時期には人に寄りかからせてもらうことだって大有りだ。ただ、人間が人間として生まれてきた以上、そんな状態が「心身の健やかな状態を保ったまま永久につづく」なんてことは、きっと不可能なんだろうなと思う。

 

結果的にはその状態が苦しくなったり、傷つけあったり、勝手に傷ついたりのごにゃごにゃぐるぐるした世界を作り始めてしまう気がする。

 

でもそんなものの全部が、結局のところは強烈に「自分のことを再び見始める」ことのきっかけになってくれたりするものだから。だから最終的には全部おっけーなんだな、と。

 

 そんな風に今感じている。

 

 

 

 

私は今、私の「好き」と「嫌い」にたくさん再会している。

私の「好き」と「嫌い」に新しく出会い始めている。

 

 

「やりたくないことは、やらない。やりたいことだけ、やる。」

 これを決意したのはおそらく4年くらい前なのかなと思うけど、

寄り道したり躓いたり逆走したりしながらも、

「やりたい」と「やりたくない」に対する選球眼はそこそこ育ってきたのかな、、?と思う今日この頃。そしてやっぱり選球眼を育てるには、「やりたい」の極をやってみる時間も大切だったんだなと。だから何一つ、いいとかだめとか、ないな。全部おっけーだな!

そんなとこに最終的には着地したい。

 

 

ちなみに最近の私が自発的にできている、数少ないことをここに挙げると。

 

毎日よく寝て、食べたいものを食べたい時に食べる。

少しずつ少しずつ、喫茶店を外的にも内的にもリニューアルさせてる。

コンブチャの大量培養。(楽しすぎてやばい)

自転車に乗る。

漫画を読みまくる。

大好きな友達の誘いにだけ乗る。

 

おわり。

 

でも生きていけています。今のところ。

感謝…。ほんとうに感謝。

 

 

そんなことを考えていたら、先日偶然読んだもので「いいな!」って思ったものがあったのを思い出したので、ここに載せて今日の日記は終わりにします。

 

 

 

『なんか本当、元クソヤローが一番信頼できる。綺麗で修正をかけてくる頭が良い人って無慈悲なんだよなぁ。』

 

 

 

 

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なくしたわけじゃなかった、ずっとここにあった

千葉県船橋市の実家にきている。

小学校2年生から6年生まで、あとは大学生時代に暮らしていた家だ。

 

久しぶりに来てゆっくりと過ごしていて、この家のあまりの居心地のよさに静かに体感の全部を任せている。

 

大きな窓がたくさんあるこの家。

家の前面は、とても背の高い竹がたくさん生い茂った小高く小さな山のようになっていて、そこを吹き抜けてきた風が開かれた窓からいつまでもいつまでも流れ込む。葉擦れの音、鳥の鳴く声、柔らかい陽射しが家の奥にまで届きつづけている。

 

壁の色、床の色、ドアの色、外壁や風呂のタイル、カーテンの色…どれも落ち着いた色合いで、主張はないながらも上品だ。小さな庭で、花と草と洗濯物が揺れる。

 

こんなに居心地のいい家で、私は育ったんだ。知らなかった。

 

この家に戻ってきてゆっくり過ごすなんてこと、もうほとんど、何年もしていなかったものだから。

 

子どもの頃、大学生の頃。天気のいい日に縁側に座って、膝の上に大好きだったわんこを乗せて、梳き櫛で金色銀色の美しい毛並みを漉いてやるのがほんとうに好きだった。わんこもきっとその時間が好きだったんだと思う。櫛を手に持ってわんこの顔を見てニッとするだけで、尻尾が落っこちそうなくらいに振って嬉しそうな顔を弾けさせる。私の顔と櫛とを見比べながら縁側に向かってまっすぐに走っていく。そんな日々を思い出す。

 

時々、父親が夜中にお酒を飲んで暴れることがあった。そんなときには母と姉妹と一緒に家の外に逃げた。車に乗って母の実家に行くこともあれば、なにかを持ち出す余裕もなくて裸足のまま星空の下を延々と歩いたこともあった。

そんな思い出なんかもあるものだから、どこかで、この家に張り付いているイメージを変えようとしてこなかった気がする。

悲しい想いをしていたのかもしれないけど、いまはその頃の気持ちはまるで何も思い出せなくて、ただ妹と手を繋いで夜空を見ていたら生まれて初めての流れ星を見て喜んだことを思い出す。

記憶を美化をするつもりも悲観的なものにするつもりもなくて、ただ大人になったいま思うことは、色んなことがあったけど、私はこの家の心地よさをちゃんと享受しながら育ったんだなということ。

 

そして単純に、こんなに素晴らしい家を残してくれた父に今では感謝の気持ちが湧いている。

お酒を飲んで暴れるにも、なにか理由があったんだろうと思う。大変な想いをして、ストレスやプレッシャーを抱えて、家族のためにと働いてきたのかもしれない。

 

母にも感謝の気持ちがやまない。こんなに居心地のいい家に整えてくれていたこと。父が殆ど不在、もしくは帰って来ても不安を生むような言動ばかりするなかで、この家で私たち姉妹を育ててくれていたこと。そして、今では私の友人にまで家を解放してくれていること。

 

 

 

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私は、私の過去がずっと嫌いだったんだなと思う。生い立ちも、失敗も、見誤ったことも、ひとを傷つけたことも、ひとの言動から傷ついたことも、全部全部合わせて、私の一部をつくった大事な時間だった。学びを与えてくれる日々だった。何一つ嫌わなくていい。何一つ間違いはなかったんだよ。いまはそう言いたい。

自分の過去も過ちも何もかもを含めて認められて、表面的な態度じゃなくて、ほんとうに受け入れた時からはじめて、私はもっと「今」を愛せるようになる。そんな気がした。

神様はいるって信じる?

答えはいつもシンプルで、わたしの望みは至極平凡で、日常の中にいくらでも輝きを見つけることができるのは多分私の特技で、だけどそんなものの全部を受け入れることができないまま日々を過ごした。

 

日常は限りなくシンプルに、優しくて美しい。

 

複雑に複雑に、こねくり回して、こうあるべきとかあああるべきとか、足りない足りないと言ってみたり。だけどやっぱり答えはいつもシンプルだった。すくなくとも、私の中では。

 

「新しい世界に行ったんだ、もう振り返らないで。」

神様にそう言われた気がした。

たとえいつか失う日が来るとわかっていても。

 

「新しい世界であなたにはやることがあるんだ、どうかいまの命を思い切り生きて。」

 

神様にそう言われた気がした。

神様がいるって、信じてるわけじゃないけど、でもそんな気がしたんだ。

もしかしたら、私の中の、私だけの神様が。

  

 

真っ暗闇。星だけが照らす。風の音もしない。

道路の凹凸がまるで直されていないままの通学路。

私をまっすぐに信じるあなたと、あなたをまっすぐに信じる私と、いつまでも話をしながら歩く。

 

 

「概念を壊す。それが新しい世界を作る。想いがあるからやる。それを教えてくれたのは千秋ちゃんだった。」

 

「概念を壊すなんて息巻かなくたって、世界の真実みたいな幸せが確かに存在していたよ。あなたとの暮らしの中。」