On the way always

日々の記録と、思うこと徒然。自分のために綴ってます。

身体、きてます

最近、縁あって、相方くんにブラジリアン柔術を教えてもらっている。

ブラジリアン柔術って?と思った方は、

こちらご参照。相方くんが最近開いた柔術教室のサイトです。

https://www.jiu-iku.com/about-jiujitsu

 

 

 

2月くらいだったかな。初めてのレッスンで、衝撃を受けた。

これまでの人生に、全く縁のなかった文脈が、体験として飛び込んできて、混乱した。

 

それは、柔術が、力や技術を駆使して『他者を制圧することを目的にしている』ということ。

 

補足しておくと、相方くんのやってる柔術クラブは全く違う目的を持って開かれてる。

柔術の動きを使って、人間の持つ可能性を引き出すとか、コアをしなやかに強くするとか、身体の全体性を伸ばすとか。そういう目的がある。

 

だけど、柔術の技、それ自体の目的は、完全に『制圧』。

下手したら相手を殺してしまうくらいの技術。

 

 

技を習いながら、最初に湧いた気持ちは、

「なんか、やけに凹むな」

「人を制圧とか、闘うとか、そんなこと全然したくないな」

だった。

 

ところが、だ。

 

次の瞬間、事態は意外過ぎる展開を私にもたらす。

 

参加者の人たちに見本を見せるために、私が相方くんの相手役になって、技をかけられた時のこと。

 

身体の自由がなくなり、関節が痛み、ぎゅうっと首が締まる。

 

ぐうえって、おもわず声が出る。

痛くて涙がにじむ。

 

少しの悲しみの後、次の瞬間、咄嗟に私の中に湧いたものがあった。

 

それは、

 

なんと!

(´⊙ω⊙`)

 

 

 

殺意!!!💥💥💥

 

 

 

いやほんと、自分でも、「まじか!」と思いました。

 

普段、人に対して殺意を抱くことなんて、ほんっとうに、皆無と言っていいほど、ない。(というかそもそもあまり他人に関心がない)

この人あまりにク◯だなと思うような時とか、あとは自分が「あまりにだめだ〜」な時には、つい「一回死んでこい」とか、思っちゃったり言っちゃったりすることは、ある。

 

だけど、殺意ですよ。しかも相方くんですよ。

技をかけられた理由を冷静に考えれば、なんてことはないのだけど。

ただ、咄嗟に湧く感情としては、殺意。

自分を痛い目に合わせる対象に対して、ああ、私は、殺意が湧くんだなあと。

 

 

結構な、大変な、気づきでした。

 

相方くんが言うには、武道や格闘技は、やってみるとその人の本性が顕になったりするから面白いという。

試合をしてみるだけで、言葉を使わずに、その人の人間性がわかってしまうようなことがあるそうだ。

 

わかる気がする。とても。

特に「格闘技」という名のつくものなんかをやっていると、普通に平穏に暮らしていたら使わないで済む感覚が、開いてしまう気がする。

 

闘うーーー技をかけるとか、攻撃するとか、護るとか、痛みを感じるとか、駆け引きしたり、抗うとか、制圧するとか、とか、とか、、

 

多くの現代人は、頭の中だけでは、達者にそれを日常的にやってる気がするのだけど。

でっかちになった頭を一度取っ払って、身体でその行為をはじめてみたとき。

出会ったことのない自分、本能剥き出しの自分、みたいなものが、突然飛び出してきちゃっても不思議じゃなさそう。

(私が異常なまでに、良くも悪くも本能的というだけの話かもしれないけど…汗)

 

 

私は、人類の全体性みたいなものを信じているのと同時に、全然、牙もあるし、攻撃性もあるし、敵!(痛いことするから敵!)と認識した瞬間、咄嗟に排除欲が湧いたりするんだなあと。面白いなと。

 

いいも悪いもない、ただ、そういう自分がいることを認識した。

認識したからと言って、「自分で自分のことが信じられない!😭」とか、そういうのはいらないなと思っていて、ただ「認識できたこと」がとてもよかったと思ってる。

この野性味は、いい意味で、自分を守ったり、直感力を高めてくれそうでもある。

 

 

そんな自分ーーー野性味?のある自分がいることを確認してからは逆に、不思議と、抵抗なく技の習得に勤しめるようになった。

柔術を通して「他者を制圧したい欲」はその後も自分の中には生まれないのだけど、技を使うと体格の違う男性でもさほど力入れずに引っ繰り返すことができたり、技そのものの面白さ、身体の面白さに気づいていくばかりだ。

 

自分自身に潜んでいた本能が剥き出しになった姿を、目視確認&承認できて、はじめて、「本物の理性」ってものは、その人の中に育ち始めるのかもしれない。

 

 

 何より、「あ〜〜なんかこれはよくわからないけどコアに効いてる気がするぅ〜汗」という動きが柔術には多くて、なんか色々、締まってきてる気がする。

 

筋肉痛はあるけど、なんというかこれまで体験したことのある「重くて固くて嫌な感じの筋肉痛」ではないのが面白いなと思っている。

うまく言えないのだけど、柔術で得た筋肉痛は、しなやかに、痛い。

 

 

 

・自分が知らなかった自分【野性?】を認識できたこと。

・具体的に身体をずっと動かしていることで、身体の巡りがよくなってきていること。

 

 

この二つの大きな変化は、これからの自分の行動に、判断に、表現に、そして何より精神に、何か新しい、それでいて、すごくいい影響を与えてくれそうだなと思ってる。

これからが、またたのしみ。

 

 

---

 

追記。

今日は友人の誘いで、初めてボクササイズというものを体験した。

 

1時間....

1時間だよ。

ボクシングのステップでずっと飛び跳ね続ける。前に後ろに。

それも、腰を入れて、ジャブやフックやストレートを素早く打ちながら。

 

「疲れたら、絶対、やめよう。 途中退室しよう。」

 

そう心に決めて臨んだのだけど。

 

 

アップテンポの曲が大音量で流れる中、先生の元気な声が会場に響き渡る。

汗は滝のように流れ出ている。床を濡らして、滑ってしまうほど。

数十秒の水飲み休憩は、ほんのたまに入るくらい。

 

なのに。

 

不思議なくらいにどんどん元気になっていく私がいて、むしろ身体の軽さは時間を経て上がってきているのではというほどで。

ワロタ。

まるで何か憑き物が落ちていくみたいに、爽快だった。

 

そして何より、ファイティングポーズ。この威力はすごい。

仁王立ちで、ちょっと騙されたと思ってやってみてほしい。

脇を締めて、二つの拳を顔の前で構える。

このポーズ取るだけで、なぜか肚の底から力が湧いてくる感じがある。

大げさかもしれないけど、自分の可能性をもっと信じたくなるような、そんな意欲がふつふつと湧いてくる。

 

そして1時間のボクササイズを終えたばかりの今、このブログを、あっという間にこうして書きあげようとしている私がいる。

 

----

 

身体って、すごい。

いい変化を与えてあげると、どんどん変わる。心も、それにつられて変わる気がする。

 

もっと言うなら、最近肌感覚や味覚も敏感になってきてる感があって、そのことについてもまた別のブログで書きたい。

 

 

みずすずも、最近一緒に柔術クラブで身体を動かしているからか、ご飯を積極的にたくさん食べるようになった。表情も前よりも明るくて、人懐っこさが強くなった感がある。

 

あとは、以前は絵を描き始めると何時間でも描き続けていたのが、最近は合間合間にボールやフラフープで遊んだり、身体を動かしていることが多い。意識的にか、無意識的にかはわからないけれど。

 

母娘ともに、いい変化のときが訪れているんだな、と思う。

相方くんのおかげだな。

ありがとうね。やまぶし。

 

 

身体、いい感じにしておきたい。

巡らせておくこと。心地よくさせておくこと。

これが一番大切なことなのでは、と、実感を持って思えてきている。

 

身体、いい感じにしておくと、世界の巡りが、輝きが、圧倒的に変わる。

そんな風に感じずにいられない今日この頃。

 

https://www.instagram.com/p/BjjPjg0lExs/

天気がいいから、茅ヶ崎から江の島の喫茶店まで自転車で。太陽の下に出たくなる。いい季節ですね☀️



 

お父さんバンクで"よってたかって"してきた

離婚してから今年で10年たつことに気がついた。

 

離婚したばかりの頃、子どもたちに対する「お父さんいなくなってごめんね」の気持ちとか、しっかり自立しなければとか、子どもたちが1人で生きていけるようになるまでしっかり私が支えなければ、とか、とか。

 

「全部、ひとりでやります!」

気合い入ってた。

いや、正しくは、全責任をひとりで負うこと選んで、必死になってた。

 

 

家事、育児、仕事。

どれか1つだけでも、完璧にこなそうと思ったら大変。だってのに、全部を「ひとりでやる」ことを選んだ。

その上、いわゆるお父さん業ーー力仕事とか、アウトドアとか、電気工事まで(いろいろ間違えて電線を爆発させたことがある笑笑)どう考えたって専門の人に頼んだ方が良さそうな分野まで、ひとりでやろうとしていたんだから、そりゃパンクして当然だわと。今なら笑いながら思う。

 

でも究極まで大変な日々があったから、パンクした私があったから今があって、喫茶店があって、お父さんバンクが生まれた。そう思うので、1つも後悔はしていない。

全部必然だった。いま振り返れば笑える珍事件もたくさんある。

 

 

 

 

月日は流れ、健やかにゆったりと暮らしたくて三年前に開いた喫茶店。たくさんの人たちとの出会いが流れるように始まる。


ふとしたときに、喫茶店に集う人たちに、子どもたちのことを相談してみた。

「ね、ちょっとこの分野、きみ得意でしょ?ちょいと助けてもらえないかな」

「あ、全然いいよー!」

ってあっさり、むしろ嬉し楽しそうに助けてもらった。

 

「そんなの全然今世でやったことなさすぎる!だからやります!!むしろ!」的なツワモノもいた。

そんなことがスタンダードになっていく日々が始まったときには、やけに力が抜けたものだ。

 

なんだ、世界は全然優しいじゃないか。
世界を厳しいものにしていたのは他でもない私だったのか。
自分を孤立させることを選んでいたのは、他でもない自分だったのか。

 

 

妙にほっとして、力が抜けて笑って、そうしたら解けたところからぽろぽろと涙が落ちた。

大丈夫だよと、一緒に笑ってくれる人たちが自然と増えた。

 

---

 

そして現在。

一緒に暮らす家族が増えた。

相方君とこどもたちと4人で暮らしている。

 

 

近しい誰かの世界と、私の世界が、交わる瞬間。傷つけ合うこともあるけど(正確には、自分の傷を確認するってだけなんだけど) 助け助けられ、癒し癒され、笑い合う瞬間。

魂の根幹に迫るかのような喜びが生まれる。そんな風に日々、感じている。

 

そしてそんな特別な体験は、一緒に暮らす家族の枠組みの中だけで、とどまらせておかなくてもいいのかもしれない。誰とでもいくらでも!とは少しも思わないけど、好きな人たちも素敵な人たちも世界にたくさんいるんだから、安心して、広げていったらいいんだろうとおもう。


---

 

前置きが長くなってしまったのだけど。

最近あらためて思うこと。それは、

 

「お父さんバンク、作っておいて本当によかった…」

 

ってこと。

 

 

 

先週土曜日。
私の大好きな母娘、みゆきさんとはるちゃんに呼びかけてもらって駆けつけた、"よってたかって運動会"

 

私と、カヤノさん改め来世ヒデアキ氏と、それに相方くん。3人で、中野区の小学校に応援に行ってきた。

 

一言で言うなら最高の1日だった。

 

f:id:Naima_c:20180601143512j:image

 

おじいちゃんおばあちゃんや、みゆきさんのお友達含め、はるちゃんのために集まった7人の大人達。
その集団の姿を、グランドからはるちゃんが見つけた瞬間の、びっくりした顔。その後の、恥ずかしそうな顔。だけどすごくうれしそうな横顔。

ラジオ体操しながら、含み笑いで絶対にこっち向かない感じ(笑)

ああもうほんといいな、来てよかったなとこちらまで含み笑う。

 

 

小学校最後のかけっこは、お父さん達3人+みゆきさん+みゆきさんのお友達の合計5人で、スタート地点と中間地点とゴール地点とに分かれて写真を撮りまくった。

力いっぱい走るはるちゃんが、ついに1人、群から離れて先頭でゴールを決めたときには、胸が熱くなって、なんかもう色々こみあげた。

 

f:id:Naima_c:20180601143330j:image

 

騎馬戦は、大勢の子どもたちがグラウンドで粉塵をあげて駆け回る。はるちゃんを見つけられない。だけど前もって、グラウンドの反対側でカメラを構えてくれていたメンズお父さんズが、ちゃんとはるちゃんを見つけてくれていた。

 

f:id:Naima_c:20180601143434j:image

 

白熱する子どもたち。悔しさに泣いている子もいた。すごかったね、がんばってたね。感動した。ぐっときたね…。
大人たち、各々の想いを話しながら観戦する。

 

ところで、普通の家庭だと、お父さんひとりにかかる「絶対いい写真撮ってね!」的?重圧?が重めな気がするんだけど、おかしな話かもしれないけどシングルマザーの家庭だと、こんな大勢のお父さんたちにあらゆる画角から写真を撮ってもらう、なんてこともできるんだな、と思った。

「シングルマザー」が持たれがちな[一人で大変そう]のイメージ、お父さんバンクがひっくり返していけたらいいな(笑)

 

 

 

お弁当は、取材に来てくれていた新聞社の方やあとから駆けつけたベジさんも合わせて、合計12人で食べた。
一人の女の子を囲んで。

 

f:id:Naima_c:20180601143349j:image

 

新聞社の方たちに、(新聞用に)写真撮りたいから笑ってーと言われて、誰かが不自然な作り笑いをする。それを見て結局みんな笑ってしまう。

 

はるちゃんがんばってたね。

かっこよかったね。

騎馬戦すごかったね。

みゆきさんのピーマンの肉詰め最高!

 

みんなで美味しいものを食べる。笑いながら、話しながら。

 

ああ、いいな。こういうのすごくいいな。


ただただ、幸せだった。

ただただ、喜びだった。

 



はるちゃんが、運動会終わりにみゆきさんに、

「みんなでお弁当食べられたの、楽しかった!」

と話してくれていたらしい。

 

 

f:id:Naima_c:20180601143605j:image

6年生気合のソーラン節。

はるちゃんは大漁旗を持ってグラウンドを駆け回った。かっこよすぎた!!!

 

 

 

ちなみにおひでさんは、昨日も長野県の小学校に応援お父さんとして駆けつけている。来世パパ、二週連続ですよ。笑

 

実は私と相方くんも、みずきの体育祭とはるちゃんの運動会と二週連続でした笑

 

でも、単純に、観戦がめちゃくちゃ楽しいから行けるし、大好きな人たちに会えるから行ける。二週連続でも行ける動機なんてそれだけだなとおもう。

 

 

---

 

以前、はるちゃんがお母さんのみゆきさんにふとした時に話してくれたという言葉がとても印象に残っている。 

 

「うちは、安心だね。学校でいじめにあったりしても、お父さんバンクがあるから、味方になってくれる大人がたくさんいるから大丈夫だね。」

 

この話を聞いたとき。
というか、今改めてここに書いてみても。

いろんな気持ちが溢れてきて、またしてもこみ上げてくる。


はるちゃんが、その安心感を感じてくれているのなら、本当によかった。
本当にお父さんバンクを作ってよかった。

 

というかじつは、結局のところ、私は私のために、お父さんバンクを作ったんだと思う。

 

 

 

 

私が安心したかったんだとおもう。

人間はどこまでもひとり。

だけど、人との安心感のある繋がりがあるからこそ、安心してひとりなれるんだとおもう。

 

結果論でしかないのだけど、私がひとりで頑張っていた頃の辛い記憶は、はるちゃんやみゆきさんが見せてくれるような笑顔に出会うたび、癒されていっているような気がしてならない今日この頃だ。

 

 

---

 

核家族」という枠組みの限界を感じていたし、(核家族の中でうまくいってる家族もあるから、もちろん一概には言えないけれど) 家族のあり方は、もっと、役割や枠や法律や常識なんかに囚われないところで、無数に存在していていいのかもしれない。

 

「ただ好きな人たちと、好きなだけ、一緒にいる。」

 

このシンプルな理由だけで、家族は発生したり、広がっていったらどんなにか世界に余白が、余裕が、増えるだろうかとおもう。

 

 

 

あと、天才合宿や森の学校を考案したあづみさんがよく言っていることなのだけど、子どもを育てているってだけで、地球にとって未来にとって、とんでもなく崇高な仕事をお母さんたちは既にしている。最も大切な仕事をしている。

だから、1人で抱え込むってことは至極不自然な行為なんだとおもう。言ってみれば地球や未来にとって不都合なことなんだとおもう。(未来や地球に自我はないよとか、そういうツッコミはここでは大丈夫です笑)

 

たくさんの人で一緒に育てることが、ほんとうは自然なことなんだろうとおもう。

不得意なところは得意な人に任せて、もしくは一緒にやって、自分の得意分野では誰かを助ける。これが当たり前のようにできる世界になったら、みんな安心して自分の特性を愛して、他者の特性も尊重して、より安心して生きやすくなるんじゃなかろうか。

 

 

 

お父さんがいるからとか、いないからとか。
結婚しているからとか、いないからとか。
恋人がいるからとか、いないからとか。

多分もう全然関係ない時代がくる。

安心感も幸せも人とのつながりも、誰もが自分で選んで、得ていっていい。リア充爆発しなくていいい。

 


お父さんバンクがやれることは、まだまだありそう。

いつか、倒産することーーお父さんバンクなんてなくても、助け合って補い合って生きていくことが当たり前すぎる世界になることーーを、目指して。

「感じる」

 

空気を感じる。香りを感じる。声を感じる。温度を感じる。色を感じる。

 

感じる。感じる。感じる。。。

 

 

 

「感じる」という行為が、実は、全て言葉であって、思考であるんだということを話して聞かされたときには衝撃だった。

 

衝撃だった。

だけど、その後ですぐに、納得をした私がいた。

 

ほんとうに「感じている」とき、人間は多分、

「感じる」という言葉の届かないところで、ただ存在している。

 

 

 

言葉が好きだ。言葉は記憶。

言葉に色を見たり、情景を見たり、においを感じたり、空気の冷たさや温かさまでも感じたりするのは、私の記憶だろうか。細胞の記憶だろうか。それとももっと大きなもの。

 

 

自分で紡ぎ出した物語に、夢中になったり、失望したりもする。

言葉は記憶。

物語のなかを自由自在に泳ぐために使うことのできる、

人間の生み出した、スペシャル・ツール。

 

 

だけど、言葉の届かないところに居られるほんのわずかな時間。

人生の中でほんの時折訪れる、あの時間。

 

そこにいるときは。

 

 

 

不登校児観察記 2018.5.24

今日丸一日、すずさんは一人きりで自宅で過ごしていた。

 

彼女以外の家族は全員、朝7時半に自宅を出て、藤沢・江の島界隈で各々の仕事をしたり学校に行ったりして過ごしていた。

自宅を出発する際、一緒に行く? と一応聞くのだが。いつもは大体イエスと答えるのだが。今日の返事はノーだった。

 

 

で。1日まるまる家を開けて、大人たちが帰宅したのは18時半。

 

 10時間以上、一人きりで自宅で待っていたすずさんに、一日何をしていたの?と聞くと、嬉々として答える。

 

す「いやー、今日は主婦みたいだったよ!!

  めっちゃいい1日だったー!」

 

私「?!」

 

 

なんでも、一人きりの間、今日も相変わらずリビングでフラフープを回したり(腰の位置でホールドできるようになったらしい)絵を描いたりもしていたらしいのだけど、合間合間にしていたのはなぜか家事。

1つも頼んでもいないのに、怒涛の家事。

 

 

食器洗い。

自分の布団のシーツの洗濯。

姉と自分の衣類の洗濯。

自室の掃除。

風呂掃除。

なぜか大人の寝室のベットメイキング。

窓を開けて風を通したり。

 

「やー、いい一日だったわー!」

すばらしく清々しく、キラキラした顔でそう話す11歳。

 

ほっとくとなにするかわからない。

しかも家事って笑

 

何度も言いますが、頼んでません。

「大人のお手伝いをした」という感覚は本人にはありません。多分。

ちなみに普段は片付けない。部屋は散らかり放題。でも特に注意する我々大人たち、でもない。

 

なぜか2歳くらいの頃からそう、すずは、たのんでもいないのに、教えてもいないのに、突然、本当にある日突然、目の前の壁を掃き始たりする。

 

謎の生態。前世の記憶?一体なんなんだ、おもろい。笑

不登校児観察記 2018.5.23

昨日は一日中、死ぬほど眠たかった。

朝から夜までずっと2階のリビング(我が家は2階全面が23畳の広いリビングになってる)のソファで寝ていた。

よくまあこんなにも眠れるものだな、と自分でも感心するくらいに眠っていた。

 

 

だけど、時々目がさめる瞬間がある。

1階のこども部屋から、何か生き物が、

 

どダダダダダダダダダダ!!

 

ものすごい勢いで2階に駆け上がってくる。

その音ではっと目覚める。

 

その生き物は、2階に上がってくるなり、リビングの中央にある台所でうろついて、何か食べ物をゲットする。

 

もしくは、リビングの一番広々としたスペースの真ん中で、おもむろにフラフープに身を潜らせ、ぐるぐると勢いよく回し続ける。

 

時々、落とす。

 

一度、2階に駆け上がってくる音で目覚めた私は、またうとうとと微睡みの中に落ちていき、そのあと「ドガッシャーーーン!!!!」という、フラフープが床に叩きつけられる音でもう一度はっと目覚める。

 

しばらくすると、また

どダダダダダダダダダダ!!

 と1階に降りていく。

 

しばらくすると、また

どダダダダダダダダダダ!!

 と2階に駆け上がってくる。

 

その繰り返し。

 

 

2階で飯食うか。フラフープ回すか。

それ以外の間は、おそらく、1階のこども部屋で黙々書物を読み、絵を描いているかと思われる。

 

その生き物。

名前はすず。

不登校期間、順調に更新中。

 

なんか楽しそうだな、と思う。

 

f:id:Naima_c:20180524143951j:plain

Bm

ギターでBm(ビーマイナー)のコードを押さえるのは難しい。

左の人差し指だけで6本すべての弦を押さえ、その上で中指、薬指、小指を駆使して1つの和音を完成させる。

 

 

楽譜を見ながらギターを弾いていて「Bm」の表示を見つけると、


「あー難しいのきた」


と一瞬考える。

 


今日私は、ふとした時に、私の癖に気がついた。それは、Bmが来るたびに「あー難しいのきた」と考えて、しかもその後に続くのが、なんと

 

「どうせきれいに弾けないだろうな」

 

という予測。

瞬間的になされる卑屈な予測。

 

さらに言うなら、これまでずっと、コード譜上でこの人に出会うたび、どうやら同じ予測をしてきただろうということ。

 

案の定、ずっとずっと、Bmがへたんぴのまま。

 

 

…こわいな、と思った。その予測が、ほぼ自動的なんだもの。

 

きれいに弾ける時もあるのに。
過去に何度もきれいに弾けた経験があるのに。

それでもなお、ほぼ無意識的に「きっと次は弾けない」を採用していたなんて。

 

 

向上心。わたしにはあると思う。

だけどこういう反射的な自分の反応を、時々見つけると、驚く。

 

自分を出さないように、自信を持たないようにすることを良しとしていた遠い昔の日々のことは、まだ脳内のどこかにしっかりと染み込んでいて、思いもよらぬところで時々、これ以上前に進まぬようにといつのまにか私の両足を掴んでいたりする。

  

意識に上ってきていることなら、変えようがある。だけど意識に上ってきてすらいないこと、長年の慣習でほぼ自動的に自分がしてしまう言動については、変えることはおろか感知することすら難しい。

「まずはそれを見つけること」

そこから何もかもがスタートする。

静かな時間が、一人きりの時間が必要だと感じる。

よく自分を見つめるための、静かな時間。

 

---

 

今できることは、「今日も一歩進んだ」と、信じること。これだけ。

小さな一歩かもしれないけど、よくやったと自分を褒めてあげること。

 


ギターを弾きながら歌うのが好きだ。

だけどBmが苦手だ。

だけど苦手なのは、「きっと弾けない」とすることを、自ら率先して選び続けてきたからだ。

 

 

私は今日、譜面上でBmに出会った時、初めて自分に問うた。

 

「どうしたら、きれいに弾けるかな」

 

 

この問いを自分の中で発動させた途端、だった。

次のストロークから、ギターはきれいに高らかにBmを鳴らした。


その次のストロークも。

そのまた次のストロークも。

 

左手は、「きっと弾けないBm」を弾くためにはもはや弦を押さえていない。


「どうにかして弾きたいBm」を押さえてくれるようになった。

 

なんだ、と。拍子抜けした。

 

自分に世界を変える気が、あるのかないのか。

それだけが、自分の世界を動かしている。

 

https://www.instagram.com/p/BjER6KTlK8Z/

一昨日の日の出開店時。無修正。

 

虹の起点

まだみんなが寝静まってる時間に、街の中で動き出しているのはパン屋さんと新聞屋さんと、あとはうちくらいのものじゃないだろうか。

 

言ってみれば至極生産性のないことをしているのかもしれない。
日の出と同時に開店する喫茶店

 

誰も来なくてもいいから、開いてみよう。

そして意味なんて、成功させることなんて考えなくていいから、ただ続けてみよう。

だって素敵じゃない。
誰もがまだ眠っている街のどこかで、ひっそりと、開店してる喫茶店がある。

そんな物語を、自分たちの手で始められるなんて。

 

https://www.instagram.com/p/BNFzgTDDgLI/

 

---

 

実際には、開店すれば必ず、どこかで、なにかしらで、この喫茶店を見つけてくれた人が、毎回、訪れてくださる。

 

今日の開店に至っては、7時を回るころ、ほぼ全ての席が埋まった。椅子だけじゃなく、畳の上や縁側に座って珈琲や会話を楽しんでいる人たちで喫茶店は溢れ、その光景を朝の眩しい光が包んでいた。

 

f:id:Naima_c:20180520202906j:image

 

開店時刻ぴったりを目指して、だんだん明るくなる空の変化をたのしみながら、遠方から車を走らせてきてくれるお客さんもいる。

 

県外から、高速を飛ばしてきてくださった方もいた。「だって素敵じゃないですか」ただそれだけの理由で。

 

「こどもがまだ寝てるうちに、一杯、美味しい珈琲をゆっくり、のみたくて」

そんなふうに言って一人で来られる近所のお母さんたちもいる。

 

夜明け前に家を出て鎌倉から歩いてきたよ、なんて友人も。

 

 

 

逆に、開店から2時間近く、誰も訪れないこともある。

 

誰かが訪れてくれるととても嬉しい。

見つけてくれてありがとう、と。

朝のこの特別な空気を、本当なら誰もいないはずの喫茶店を、一緒に体感できる人がいることのありがたさを思う。珈琲台の向こうで笑む。

 

だけど、誰も訪れない時間もまたいい。

清涼な空気がいよいよ  しんとしたまま空間を静かに満たしている喫茶店の中で。

やまぶしさんが、豆を手挽きして、ネルドリップで珈琲をぽたぽたと淹れる音がいよいよ響く。はい、と渡されたコーヒーカップをゆっくり、一口ずつ口に運びながら、その深い甘みを、朝の音の中で味わう。

 

f:id:Naima_c:20180520202327j:image

 

昼間は往来の多い表通りからしきりに聴こえるトラックやバイクの音も、早朝だけは、ほんの時折聴こえるだけだ。

代わりによく聴こえるのは、風の音。葉擦れの音。鳥の鳴く声。

それらが耳に自然に届くのを妨げないように、BGMはオフのまま開店時間はしんしんと過ぎていく。

 

---

 

このカフェを思い立ってからもうすぐ1ヶ月。

 

「早起きなんて、絶対に苦手。絶対に無理。」

以前はそう思っていた。

 

だけどこのカフェを思いついた時に胸にあったもの。それは、

 

「日の出前の早起き = 自分にとっての超非日常」に飛び込むワクワク感と、

 

「ひとまず思いついちゃったからはじめてみて、大変だったらやめたらいっか」という妙な抜け具合と、

 

「日の出と同時に開店する喫茶店だなんて素敵すぎる…!誰ですかーそんな素敵なこと思いついたのは!!!おお!私らか!笑」

 

という、ときめきや嬉しさだった。笑

 

うん、やっぱり、何をするにも軽やかに、そして心身がときめくことをしたいんだな私は。

 

https://www.instagram.com/p/Bi_2_3olVfI/

日の出やまぶし珈琲店。本日満員御礼🌅美しい朝の空間を、楽しい会話を、美味しい珈琲を。共有してくださった皆みなさま、ありがとうございました!面白かったのが、今日は市子路さんのアーシングイベントとのコラボ開店だったのだけど、イベントに行く予定のない人も、前の公園で裸足になってたっぷり日光浴したり、芝生の上でごろごろ横になったりしていたこと。セルフでアーシングしてた笑閉店後、彩花氏とパンを齧りながら駅まで歩く。可愛すぎたのでぱしゃり。なんとも清々しい晴天、青天だった!

 

 

 

日の出カフェ、いざ始めてみて、初めて知ったこと。それは、5月の江の島の日の出時刻が4時半頃だということ。夏至に向かって、どんどん早くなり、最後には4時台前半になるということ。

 

そして絶対苦手だと思っていた日々の早起きが、不思議と苦痛に感じられないという驚きの発見もあった。

むしろ、相対的にみて一日の流れの心地よさは日々増してきている感が強い。

 

身体が軽い。日中は快活に元気。そして昼頃に一度、眠気がくるタイミングがあるので抗わずに寝る。深くて短い昼寝を済ませると、頭と身体はひどくスッキリして、また活動が始まる。そう、そして、そんな風に過ごす一日はとても濃くて、長い。

 

そして夜が近づくにつれてふわあと、なんとも心地のよい眠気が訪れてくれる。

そういえば昔、不眠症だった時期があった。もう、なんだか化石化した過去みたいに思える。

 

人間も自然の一部。

ならば、自然の流れとともに動く。太陽が沈んだら眠り、太陽が上り自然界が動き出すと同時に人間も動き出す。そんなことがほんとうは、生物としての人間にとっては、とてもとても、自然なことなのかもしれない。

 

---

 

言ってみれば至極生産性のないことを、しているのかもしれない。

 

たくさんのものを捨てた代わりにここに残ったものは、多分、ひっそりと、だけど必ず毎朝、地球に訪れ続けている、ただの朝。そしてただの、私たち。

 

---

 

「わかってますか。これまでの人生の中で、今が一番幸せです。」

 

昨晩、やまぶしさんが、眠る前に呟いた。

 

今の私にとっての何よりの幸せは、このどこまでも静かな場所、そして遠くのどこかではない、今いる場所で。今ここで。

一緒に喜びを共有できる人たちが、いてくれることかもしれない。

https://www.instagram.com/p/Bitzn0ZlOFQ/